※過去の日記からのまとめです。
表題の通り、文学新人賞を取った三作品が収録されている。収録順で、一作目は芥川賞を受賞した『タイムスリップ・コンビナート』、二作目は三島由紀夫賞を受賞した『二百回忌』、三作目は野間文芸新人賞を受賞した『なにもしてない』という魅力的ラインナップ。だけどいずれの作品も本書の出版以前には入手困難となっていた状況があったらしい。芥川賞であっても古い年代の受賞作などは手に入らないものも結構ある(芥川賞全集などを図書館で借りるしかないようなものもあったりして)。そのような状況にあって、元の版で増刷して欲しいという読者の声もあったそうだが、〈一旦出した文庫を復活させるのは至難の技〉なので、〈長く、少しずつ、なかなか絶版にしない〉河出書房新社から出すことにしたとあとがきにあった(そうは言ってもちょっと前に、河出書房新社在庫希少本フェアというのがあって、キャッチコピーは“在るうちに読め“だった。至言だと思った。その時のしおりのデザインと厚みが好きで愛用している。ありがとう、河出)。それで再文庫化の際にかなり手入れをしたとあとがきに書かれていて、受賞した当時の作品からどのくらい変化したのかは私にはわかりようがないので、今回は河出から出たVerの感想文としてまとめて行きたい。
まずは『タイムスリップ・コンビナート』から。冒頭を引用する。
去年の夏頃の話である。マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつから、いきなり、電話が掛かって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局海芝浦という駅に行かされる羽目になった。
最初の二文で脳内は楽しいピクニック状態。こんなの気にならないわけがなくて、一体この後どうなっちゃうのか先を急ぐ気持ちがキャントストップ。だけどというかやっぱりというか、この後の展開も全く予想を裏切るはちゃめちゃぶりで、かといって何が起こっているのかというともうわからなくて、コメントが非常に難しいものを読んでしまった感、掴まされてしまった感などがすごくて、わけもわからないままに手探りで所感をまとめようとしていた。
あらすじとしては、ある日、マグロかもしれないような謎の人物から電話がかかってきてともかくどこかに出掛けろとしくこく言われ、電話口での色々の抵抗も虚しく、主人公である作家でひきこもりの沢野は海芝浦駅へ向けて出発することになった。ちなみに、海芝浦駅というのは、駅のホームの片側が海で反対側の改札が東芝の工場の入口であり、東芝の社員でない限り海に飛び込むしか外に出る方法はないというケッタイな駅なのである。
東京は都立家政から東京駅、東京駅から鶴見、鶴見から浅野、途中下車して沖縄カイガン、その後再び電車に乗ってついに海芝浦に到達するのだが、その道中で見たこと聞いたこと思い出したことが書かれている紀行文の体裁をとった小説なのである。鶴見から海芝浦に至るコンビナート風景に作家の郷里の四日市を重ね合わせ、昭和と平成を行きつ戻りつするタイムスリップ感(スーパージェッターもそこにかけているのだろうが誰もわからないと思うのよね)、幻想夢現の描写が続く。結局恋愛用のマグロとはなんだったのかは私にはさっぱりとわからず、東芝の工場で沢野とマグロが良い仲になったりはしなかったし(期待していたのだけど)、その他の劇的な何かが巻き起こったりもしない。何を見ても何か昔のことを思い出したり、どこかの一点に連想が収束してしまう時なんかがあったりする。それが郷愁とコンビナートだったんだろう。
本書のあとがきでは、マグロは
近代が覆い隠してしまった宗教的感情のひとつのあらわれと考えている。マグロは神仏なのだと。
笙野自身も当時は別の捉え方でもって書いていたらしく、いろんな解釈が可能なのかもしれないけど、それは正直なんにもわかんなかった。その代わりと言ってはなんだけど、ネットで見つけた芥川賞の丸谷才一の選評には深く頷かざるを得なかったので以下に引用。
「むきだしな感覚の氾濫を、分別と才覚によつて口当たりよく水わりにして、ただしちつとも水つぽくしなかつたところがすばらしい。」
「しかしかういう具合に、横へ横へと感覚をずるずるつないでゆく作風は(文章の藝のかずかずはじつに見事なのですが)、おしまひにうんと花やかな業を一つ決めてくれなければ見物衆が困ります」
完全同意で笑つてしまつた。確かに少し困りました。文章の芸は見事でした。言葉そのものを読んでいく楽しさ心地よさは意味に還元できないけれどそのまんまで身体に残っていくようなものがあると思うのです。意味がわからない話を読んでも怒らない人に向いている小説です。もちろん、内容的にも意味がちゃんとわかる!って人もいるんだと思いますが。
では二作目。『二百回忌』です。以下ははじめの方からの引用。
私の父方の家では二百回忌の時、死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて、法事に出る。(略)
法事の間だけ時間が二百年分混じり合ってしまい、死者と生者の境がなくなるのだ。
いやはやすごいよね。書き出しの強さ。
主人公の沢野は東京に棲みついて久しく、二年前には親とも縁を切っていたが、二百回忌の知らせが届くとたちまち理性を失ってしまう。
とりあえず死者が蘇るのが見られる上、法事の間中ありとあらゆる支離滅裂なことも起こるのだという。
とりあえずってこたあ無いだろって思うのだけど、それはそれとして。これは行くしかないってことでホイホイと出かけていく。二百回忌は普通の法事とは違い、専用の赤い喪服、赤いカバンに靴にストッキング…と全員がカズレーザー的な装いでやってくる。法事を執り行う本家の最寄りの駅では時間が溶け崩れてしまっているし、本家は二百回忌用に無惨にリフォームされていて参列者は鷹の爪を煮た湯を飲まされたりする。真っ赤な袈裟をかけた僧侶が二十人程も入ってきて烏の鳴き声で経を読む(後に半分は蘇ってきた僧侶だとわかる)。無茶苦茶な会食の後、沢野は蘇ってきてはいないかと母方の祖母の姿を捜し出すが、祖母は沢野のことを覚えておらず、他人行儀。悲しい。
いくら戻ってきていても会ったとは呼べない場合があるのだと判った。
切ないシーンである。その後も蘇った父方の祖母や祖父を見に行ったり、法事では〈全てをめでたくし、普段と違う状態にしなくてはならない〉のに若当主の姉が尋常のことを言って鳥にされてしまったり、プレハブに薬品をかけると外壁が溶けて中から蒲鉾と薩摩揚げが出てきたりなどめちゃくちゃな展開になる。わはは。なんじゃこりゃ。なんかスゴイっすねと半笑いが、解説読んで真顔。
家と嫁の、親と子の、血縁と義理の、そして噂としきたりの、濃密なスープに人間の個性も人格も溶かし込んでしまうフルサトという怪物を、「二百回忌」は反逆的に想像力で食い破ってしまう試みである。(略)
「普段のこと」を破壊するとは、日本的共同体の思想を破壊するということだ。
(清水良典氏の解説を引用)
うわあ! そう言われると確かにそのように読めるけど、自力では無理だな。えぇ。スラップスティックなドタバタ描写でコーティングしておいて、とんでもねえこと書いてんですね。とんでもねえ&やんごとねえ&考えが及ばねえ。恐れ入ってしまった。経験値も読解力も思考力もなにもかも足りてなさを思い知ったのだった。ブンガクぱねえと思った。もっと面白がりたいと思った。そんな作品。
なんか長くなったので、野間文芸新人賞の『なにもしてない』はまた別の機会に譲って今回はこの辺で。