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「怒らないこと」を読んで考えたこと

本日の読書。

「怒らないこと」 アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書)

 

すまなそうな名前の著者は、テーラワーダ仏教の僧侶で、1980年に国費留学生として駒澤大学(博士後期課程)に進学。長いこと日本で活動しており、日本語も堪能。「怒らないこと」をはじめとして日本語での著作も多数。

 

怒らないためには、怒らなければいい。

怒ることはバカで愚かなことで、怒りっぱなしの人生はとても暗くて苦しい。怒りは幸せの仇敵である。幸せになりたいと望むなら、まずは「私は怒りたいのだ。ロクなものではないのだ」と認めること。それから怒りとは何かを理解すること。問題の解決は、問題の理解から始まる。

本書はこんな風に始まる。滅多斬り。けちょんけちょんである。怒りっぽい人は、数ページで自分が攻撃されたと思って怒ってしまうかもしれない。そして2度と本書を開かないかもしれない。でもこれは、わざとこんな風に書いて、そこにもし怒りを感じたら、「けなされた」と怒るのではなくて、自分の怒りをけなしてみるようにと勧めている。なかなかの毒舌ぶりが面白く読めたのだけど、この戦略が成功したのかは(届けたいメッセージが、届けたい人々に届いたのかは)仏のみぞ知る。

 

人間の感情は二種類。

大雑把に言いうと、愛情と怒りの感情によって人間は生きている。

怒ると、幸せでなくなってしまい、不幸になる。怒りはまず自分を破壊して、他人も破壊して、いろいろなものを燃やし尽くしてしまう。

そして感情の物差しは主観的なもので、怒りは自分の勝手で起こしているものでもある。

「私は正しい」とか、「私は完全だ」とかはくだらない妄想で、妄想はエゴによって作られている。「私が」「私の」というエゴがなければ怒りは成り立たない。エゴは無知を生み、汚れがついて、汚れが外からの攻撃を受けると怒りに変わる。

怒りは無知だから、智慧が働いているときは人は怒らない。怒る人は頭が悪いし、存在が動物以下で、もう本当にどうしようもないですよ。怒り続けていると、妖怪怒りババアみたいな肉の塊になるんですよということが第2章では書かれている。

 

感情を大雑把に二つに分ける、ということについて、アティテューディナル・ヒーリング(以下AH)が連想される。

(参考)

「やっぱり、それでいい」細川貂々水島広子創元社

「怖れを手放す アティテューディナル・ヒーリング入門ワークショップ」水島広子星和書店

AHは「心の平和を唯一の目的とし、自分の責任で心の姿勢(アティテュード)を選び取っていくというプロセス」で、こころの姿勢は二つしかないと考える。

その二つとは、あたたかいこころと、こわがっているこころ。「怒らないこと」と異なる点としては、AHは怒りも人間として当たり前の感情と捉えて、ありのままに受け入れていくことも大切にしている。それがあることをみたら、そのあと、手放すか手放さないかを自分で選択できるんだよ、というところを強調している。それが、心の姿勢は自分で選べる、ということの意味だ。そのうえで、「怒っている=困っている」という風に見ていく。これは相手に寛容になりなさいということではなくて、相手の怒りに怒りで反応したり、怯えて逃げたりすることで、自分の心が平和でなくなってしまいますよね、ということ。自分自身が傷ついてしまうから。だから「相手は相手の事情で困っているんだ」と見ていく。言い換えると、相手の領域に勝手に入っていかないで、自分の領域から何か手伝えることがあるなら、自分の平和も守りながら手伝っていけますよ、ということなのかな。お互いの領域を尊重するということは、水島広子医師が専門としている対人関係療法においても大切にされている対人スキルだ。

 

怒りの治め方。怒ったら、怒らないこと。

第4章「怒りの治め方」でも似たようなことが書かれている(AHが初期仏教の哲学を大いに参考にしているというのが正しいのかもしれないけど)。

もしも怒ってしまったら、「あっ、自分は生命の次元でどん底に落ちた。ここにいてはいけない」と、今の瞬間の自分に気づくこと。そして「これは怒りだ」とラベリングすること。これはマインドフルネスの源流であるヴィパッサナー瞑想法。ヴィパッサナーというのは、「特別な方法で、観ること」。気づきの瞑想とも呼ばれる。

個人的には、AHも一種のマインドフルネスと捉えていて、例えばAHでは、相手の話を聴くときに、自分の思考・判断がわいてきたらつど脇に置いて、何度でも注意を相手の現在に戻していく

 

怒る人はすごく頭が悪くて、負け犬で偽物だっていうことがしつこくしつこく書かれているんだけど、じゃあ怒っている人を見つけたら、

「うわっ、怒ってる、負け犬ワロタアアwwwww」

ということを推奨しているのではもちろんない。

じゃあ、どうしていくのかというと、相手の怒りにとらわれずに、問題だけを取り出して解決を試みてください。こちらが怒らないのをいいことに、やりたい放題にする人には「あなたはこんなに怒ってしまって、大変ですね。あなたのことが、心配ですよ」と自分が今怒っていることを相手が理解できるように、鏡を見せてあげましょう。それか、ひどいことをする人をちょっとだけひどい目に合わせて、自分の犯した誤りを理解させてあげたり、きつく教え(教えることは怒りではないのでOK)てもいいとまで書かれている。

何か困って、怒りたくなってきても、まずは落ち着くこと。周りの人が怒っているときも、怒りに伝染してはいけない。いつも以上に冷静に客観的に物事を観ることで、問題の背景にある相手の状況や相手の心が見えてくる。

他人の怒りにつられて自分も怒るということは腐ったものを食べた人が吐いたものを、拾って食べるようなもので、そんなことする必要はないのだ。 

怒らないことは、奇跡をもたらす。怒らない人は周囲に平和を与えることができる。

 

最終的に「平和」というキーワードが出てきて、ますますAHとの類似性が見えてきた。また、異なる点も決定的でこの部分では交わることはないだろう。世俗に生きる身として、「全く怒らないこと」は現実的ではないと思う。ネガティブな感情も、訳あって人間に備わっているという見方は素朴で納得しやすいものだし、癒しにもつながるのではないかと思う。怒りは何かがうまくいっていなかったり、自分や自分の大切なものが傷つけられたり、脅かされているというサインとしても活用できる。何も感じなかったら、状況を改善していくことや自分自身や大切なものを守ることは難しい。怒りの感情に気づいたら、必要なメッセーだけを受け取ることにつとめ、生物としてのシステムに感謝しよう。そしてそのあとは自分で心の姿勢を選べることを知っておこう。

少しまとまらないけど、今日はここまで。