読書とカフェの日々

読書感想文と日記

4月26日の読書感想文の感想文

なんとか有言実行できたっ。「ライティングの哲学」の記事を作成しました。ほとんど日記に書いたことのコピペと、内容のまとめ(自分に刺さったところのみ)なんだけど、ボリューム的にもいい感じに書けて満足感がある。

書くことに関して〆切の重要さが何度も繰り返し指摘されているけど、もちろん書くこと以外にも当てはまることで、締め切られるまでのどこかで出すか、「切れ負け」かってことなんだ。つまり、人生も。やば。こわ。自分で言っといて。

朝井リョウの「何者」って就活小説すごい好きなんだけど、就活をめぐって自意識や弱さや狡さが炙り出されてて、なりふり構わず必死にもがくのも、透かして直面化しないのも、もうどっちだって普通にカッコ悪いわけ。他の人が内定した会社をしょぼい会社だブラック企業だって心中でバカにしたりするシーンとかもゾクゾクきて。
それですごく好きなセリフがあって、それを思い出したので、発掘してきた。以下引用。

十点でも二十点でもいいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。これから目指すことをきれいな言葉でアピールするんじゃなくて、これまでやってきたことをみんなに見てもらいなよ。自分とは違う場所を見てる誰かの目線の先に、自分の中のものを置かなきゃ。何度も言うよ。そうでもしないともう、見てもらえないんだよ、私たちは。百点になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって

うっ。くるちぃ。まあでもこういうことですよ。
アウトプットは有限で、いつも言葉足らずだ。完璧なものなどないのに、しょぼいものを生み出してしまうことを恐れて何も生み出せないというあるある。結果をバカにすることなんて誰にでもできる。私にだってできる(そしてそれは結構楽しい)。でもそれ、作れるの? 
自らが生み出すためには、成長しなきゃいけない。もっといいものが書けるはずという高望みや自分への期待を諦めていくということ。汚れて薄っぺらい大人になっちまうということだ。私は勇気ある大人になりたい。

ライティングの哲学(読書記録)

千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太による「ライティングの哲学」を読んだ。

本書には「書く」ことを一生の仕事にしながらも、「書けない」悩みを抱えた著者らが集い、各々のライティングを哲学し、新たな執筆術を模索する軌跡が記録されている。

構成は、著者らによる書けない悩みについての「座談会その1」、その2年後の執筆術の変化を書き下ろした「執筆実践」、それぞれの原稿を読み合っての「座談会その2」の3部からなる。

アウトライナー座談会」と銘打たれた「座談会その1」は、元々の趣旨としてはアウトライナーと呼ばれるツールを使用した執筆方法を見せ合い、楽に執筆するためのヒントを得ようというものであったようだが、議論は書けないことへの傷の見せ合いに発展。書くことの本質への探究へともつれ込んでいく。

千葉氏がファシリテーター的に発言を促していく形で座談会が進行していくが、初手から

前提として、方法を考えるということは、書くことに関する問題や苦悩があって、そこを突破するために行なっているものだと思います。

と方向性を示し、座談会はまさにこの路線で進んでいくことになる。千葉氏の言葉に呼応するようにそれぞれの執筆の悩み、無限の可能性ゆえの書けなさ、「制約の創造」がキーとなるのではという重要な指摘が続く。

書くこと、もとい「書いてしまうこと」にはある種の「諦め」や「ここまで(にやれ)」という制約が必要だという内容に激しく同意した。書くことやその最終産物の理想が高くなってしまう完成させたくない病を祓っていくスタイルは何かを生み出すときに必須だよなあと思う。そしてそれを駆動する一番の装置が「〆切」だったりするのかもしれない。「時間が王様」みたいな言い方もあるし。
読書猿氏の“わああーっと書いて、手に負えなくなったものは捨てて、自分に書ける範囲のものを残していく“という自分の「無能さ」でフィルタリングするという発想というか手法も面白い。読書猿氏ほどの有能な人に「己の無能さ」などと言われると宇宙の広大さと己のちっぽけさを同時に感じて途方もない気分になるが…
山内朋樹氏の庭の石組みの話はなんかすごいなって思った。庭を作る時、はじめに庭にでかい石なんか置いたらもう取り返しがつかなくて、その取り返しのつかないところから庭が生まれていく。とにかくそうして初めてみて、ここにこの石あるなら次はこうかなって、取り返しのつかなさが自生的に連鎖していくんだと。無限は手に負えない。いかに有限化するか。そうすることで不要な部分や実現不可能な部分が落ちていき、限定的な形が現れてくるのだと。至言です。

2部の「執筆実践」は、編集部からの執筆依頼を受けて「座談会を経てからの書き方の変化」のテーマで4氏の原稿が連なる。実際の〆切と原稿が提出された日時が記載されており、原稿提出順での掲載になっている。最初の〆切に間に合った書き手は読書猿氏のみであり、延期された〆切に間に合ったのが千葉氏と山内氏。締め切りを伸ばしてほしいと請い願い、延期した〆切に間に合わないという有終の美を飾ったのが瀬下氏であった。わかってるな〜。
それぞれのキーワードとして、「断念」「書かないで書く/即興で書く」「中間的テクスト」「執筆しないで原稿を作る」あたりになるか。それぞれがいかに己の神経症傾向をズラしていき、書いていると自分にバレないように書けるかに試行錯誤しているようで面白い。こんな高みの人々でも、やっぱり生身の身であり、書くことって怖いんだなって。
本論とは関係ないけど、読書猿氏に本業があることがこの部で一番衝撃だった。スゴすぎない。どうなってやがる。本業の方が「読書猿」名義よりも知名度が高かったりして。

ラスト3部の「座談会その2」は「執筆実践」で見出されたキーポイントを振り返るような形式。やっぱ〆切ってすごい効果あるよね、という話に花が咲く。〆切は伸びたりもするんだけど、どこかで線を引かれる、そこを目指して走るのだ、みたいな感覚こそ大事なんだろうなあ。「書き出し問題」も。千葉氏からはなんとなく日記みたいに書き出しちゃって、邪魔なら後でカットしちゃえという石組みアレンジ方式が提出される。

こうやってまとめてみても、はじめから終わりまで割とおんなじようなことしか書いていなかったりするけど、結論というものは一周回って出すものであって、ちゃんと一周回ることが論じるために、納得のために、伝わるために必要なことなんじゃないかと思う。大体良い結論って身も蓋もないから。

千葉 身も蓋もない話ですけど「書いていれば書けるようになる」ということはありますよね。量を書かざるを得ないから諦めざるを得ない、諦めるから量を書くことができるという相補的な過程があったと思います。

身も蓋もないっ。
それから、やっぱりなんらかの解決努力そのものが邪魔しているってことが往々にしてあって、そこは機能分析していくと良いだろうと思う。みんなの機能分析だよ。より良く書くために、ちゃんとやろうと意識すればするほど、それは書ける状態から遠ざかっていくのだとして、そこであえて書くために書かない、パラドキシカルな解決が立ち上がってくるのだろう。自分なりの、解決努力と、逆説的解決を探していくことです。

4月25日のまつ毛

昨日帰り道でビューラーを買った。ビューラーわかるかな。まつ毛を挟んでカールさせるややこしい形状のアルミ製の器具です。長年何も考えずにドラッグストアで売ってる資生堂のビューラーを使ってきて、ある日突然「新調したらどうかな」と思ったんです。そして「マキアージュ」のビューラーを買ったのです。マキアージュも大元は資生堂なので、やや黒っぽいボディに高級感があるほかは見た目上の違いはなし。しかしこれがどうしたわけか全く使い心地が違って、まつ毛が上がらない。こんなに違うのかね。使ってみて、まつ毛を挟む部分のゴムが硬いのが唯一はっきりと違いを感じたところなんだけど、いつも通りの手技でまつ毛を挟んで手首を返してもまつ毛たちの角度に目に見える変化がなく、なんなら方々に勝手な方向性を見つけようとしているようにも見える気がするし、マスカラも塗りにくいし、これはいかんと思った。それで結局、なんでもない資生堂のビューラーを買い戻したのです。今朝からまつ毛が元通りになって、マスカラが塗りやすい。目力が出た。

特に不満がなければ、ビューラーは変えなくてもいい。不満があれば、変えたらいいということがわかった。なんじゃそりゃ。

今日は読書進まず(なので苦し紛れにまつ毛の話を書いたのです)。ニコルソン・ベイカーの「中二階」の冒頭だけちょこっと読んだ。癖の強さがすごい。もし大きな本屋で見かけたら、ぜひパラパラして中身を見てほしい。これはやばい。果てしなく細かい描写に果てしなく細かい注が付いていて(字も小さくてびっしり)、どんな順番でどう読んでいくかどうかというところから読者をまごつかせる。こんなときにどうしたらいいか教えてよという気持ち。お昼休みに買い物に出かけたところから始まっているっぽいんだけど、もしかしてだけど、この調子で行くと、オフィスに戻るところで終わるのではないかという予感がしている。まじか。帯には、“想像力が細胞分裂のようにあふれ出す前代未聞の「極小(ナノ)文学」!“と書いてあるけど、それがここまでの有り様とは予想できなかった。顕微鏡的観察と思考のナルシシズムって感じ。読み終わったら感想を書こう。

お風呂でしっかり目に寝てしまい、「ライティングの哲学」の感想をまとめたかったけど、辿り着かなかった。明日か明後日かには。

 

4月24日

ほろ酔いで帰宅!
仕事帰りにカフェ行こっかな、その前にごはんを食べて〜なんて思っていた。こういうとき私はよくごはん難民状態になってしまう。何を食べたらいいのかわからない、いつものパターンから脱したいのだけど、食べたいものがわからない、どうしようどうしようという状態。結局今日もわからなくなって、ひとしきり彷徨い、諦めの入店。とあるBISTROへ。もっきりワインとかいうわけわからん提供の仕方でワインを出していたけど、普通にグラスの赤ワインと色々を。ワインは冷えてなくて良かった。カルパッチョとレバーパテと枝豆。レバーパテは値段的にバケット付いてないのかと思い、別でバケット頼んだらちゃんと適量付属してきてパンだらけになった。

「パンばっかりじゃん」と呟きながらひとりBISTROで優雅に「ライティングの哲学」を読了。非常に含蓄があって良い本だった。はじめから終わりまで、割とおんなじようなことしか書いていなかったりするけど、結論というものは一周回って出すものであって、ちゃんと一周回ることが論じるために、納得のために、伝わるためには必要なことなんじゃないかって思ったね。大体良い結論って身も蓋もないから。

千葉 身も蓋もない話ですけど「書いていれば書けるようになる」ということはありますよね。量を書かざるを得ないから諦めざるを得ない、諦めるから量を書くことができるという相補的な過程があったと思います。

身も蓋もないっ。

それから、やっぱりなんらかの解決努力そのものが邪魔しているってことが往々にしてあって、そこは機能分析していくと良いよね。より良く書くために、ちゃんとやろうと意識すればするほど、それは書ける状態から遠ざかっていくのだとして、そこであえて書くために書かない、パラドキシカルな解決が立ち上がってくるのだろう、とかなんとか。これは私の勝手な連想なので、本の中ではちょっと違った形で書かれていることだけど。
ちょっと最後の方酔っ払ってて適当に流しちゃった感があるけど、昨日のメモと合わせて感想文を書こうかな。結構すぐ読めるボリュームだから、もう一回読んでもいいかも。

帰宅してこれを書きながら、冷凍チャーハンを食べました。痩せる気ないよね。ホント。記事の見た目が寂しいから、賑やかしとしてアマゾンリンクなどを貼ってるんだけど、今日はパンとチャーハンだな。「ライティングの哲学」の書影は昨日貼ったし。

ちなみに今食べてたのはこれ↑美味しかった。おすすめ。

 

4月23日

昨日あんなに眠かったのに寝付けず。やっとウトウトしてたところをパートナーに起こされたので諦めて布団から出て千葉雅也ほか著の「ライティングの哲学」を読みはじめた。

「書けない悩みのための執筆論」っていうのが気になって去年あたりから読んでみたかったんだけど、良いよこれ。面白いことたくさん書いてあった(まだ読み終わってはいないんだけど)。4人の著者らによる書けない悩みについての「座談会その1」、その2年後の執筆術の変化を書き下ろした「執筆実践」、それぞれの原稿を読み合っての「座談会その2」の3部構成。「座談会その1」では書くためのツール(アウトライナーなど)についても話し合われていて、一個も知らなかったので、紹介されていたアウトライナーのハウトゥー本を読んでみようかな。

書くこと、もとい、「書いてしまうこと」にはある種の「諦め」や「ここまで(にやれ)」という制約が必要だっていうこととか、読書猿氏の自分の「無能さ」でフィルターにかけるとか(読書猿氏ほど有能感漂う人なんてそういないので、氏に「己の無能さ」などと言われると「おふっ」となる。宇宙は広大だ。私はちっぽけだ)、書くことやその最終産物の理想が高くなってしまう完成させたくない病を祓っていくスタイルは何かを生み出すときに必須だよなあと思ったり。手に負えなくなったものは捨てて、自分に書ける範囲のものを残していく。だいじ。山内朋樹氏の庭の石組みの話もなんかすごいなって思った。庭を作る時、はじめに庭にでかい石なんか置いたらもう取り返しがつかなくて、その取り返しのつかないところから庭が生まれていく。とにかくそうして初めてみて、ここにこの石あるなら次はこうかなって、取り返しのつかなさが自生的に連鎖していくんだと。はじめに置いた石が気に入らなければ後から初手を省いてしまえばいいと。読書猿氏の無能さによるフィルタリングとも通じてるなとも思って、至言の玉手箱や〜。しかし半分くらいまで読んで一番びっくりしたのは読書猿氏に本業があることかな。スゴすぎない。どうなってやがる。きっと本業の方でもかなり名をあげている人なんじゃないかって思うね。

そんなわけで「ライティングの哲学」を読みはじめて、だからこの日記も、ハードルは絶対にあげないほうがいいなって思うね。こんな感じでだらだらなんでもいいから書こうっていう姿勢から、今日読んだ本の感想とか割と正直に考えたことがこんなに出てくる。さあ感想を書きましょう、私はこんなに読めてますっていうことを書かなきゃあとか思ったら一文字も書けないのじゃないかなあ。なんかカッコつけたものになってしまったりもするかもしれない。読みながら連想することとかをマメにダダ漏れさせて残していければそれもいいのかもしれないけど、スピード感が損なわれるというか読んでいるときにめんどくさいことしたくないっていうのがあって、そもそも読書が好きだから、読書の楽しさを実況的に残すことでめんどくさくなったり楽しくなくなっちゃったら良くないよね。まあでもできそうな時はそういうこともやっていきたい。

今日も眠いよ、とか言って、本当に眠いのかどうかもわからなくなったよ。今日は寝付けるかな? 限界が来てからお布団に入ろう。そして絶対に触るな起こすなと言いたいのを我慢。まあ今日は多少気を遣ってくれるだろう。

4月22日の

月曜日。体重は変化なし。ちっ。マッサージ行ったら痩せる(むくみが取れて体重が減る)説が否定された。前回はたまたまかー。だいたい近頃は体重を増やすための努力を積み重ねていただけなので減らないのは当然で、漸増しないだけでも御の字なのである。そろそろまたネジを締め直して、6月までにマイナス2キロぐらい目指そう。いつの世も、ダイエットは大きな関心ごとであり続けるのね。AGEsが完全に好物なので困る。飲酒を控えて、お菓子揚げ物を食べない日を作るところから始めなければいかん。ホントに。

↓こういうのに目がない↓

出勤後は今週の予定をチェック。早く帰れたりする日ないかなーという淡い期待は打ち砕かれた。仕方ない。やることはちゃんとやろう。それ以上のことは自分にあまり期待せず、ありがたく定時で帰れそうな日もある。平日の帰り道でカフェできたら最高だなー。日曜の読書会は、3連休だし、どうしようかな。空きがあったら参加しようかなあ。課題本は一応読むだけは読んだ。

通勤時、お昼休みに「すべての月、すべての年」を読み進めて、帰宅後も半分船を漕ぎながら読んで読了。群像の方も、開いてみたけど、どうにも眠くて、今日は早寝にしよう。月曜ってやっぱ眠い。眠いんだけど最近寝つきがあんまり良くなくて、何か楽しいことを考えようとするんだけど、妄想が現実を超えていかないし先に進んで行かない。これから先、どうなったら楽しいのか、気持ちいいのか、わかんなくなってるなぁ。案外今の生活が好きなのかも。無理もしてないし、楽しみだってある。平凡かもしれないけど、考えることが好きな頭と上手になりたい物書きへの憧れもあって。とりあえずなんか書いてる。どうということもない日記だけど、このくらいハードルを下げて、尚且つ公開して、というのがちょっとでも続いていること自体が悪くないよねって思う。

明日は積読の中から次に読む本を選んで読み始めて、帰宅後は群像のルシア・ベルリン特集が読めたらいいな。群像持ち歩くのは流石に嵩張るからね。

4月21日の日記

連日寒い。北風が強くて外歩くと涙が出た。
3月に買ったルシア・ベルリンの「すべての月、すべての年」を読み始める。昨日買った群像はまだ読んでない。順番順番。

美しいルシアの写真が表紙と、目次の後に。辛口のユーモアと災害のようにやってくるロマンス、人生、そして母。情景を切り取る画角と発想の類まれさにため息が出る。めずらしいお酒みたいに少しずつ読みたくて、だけどその味わいをすぐに知りたくて切ない。

夕方に、2回目のマッサージ。前回と同じ寝かせにきているような名前のお店で今日は女性セラピストを指名してみた。私の身体(肉質)は柔らかいらしい。肉質が柔らかい人は触られて、くすぐったくなる人が多いのだそうだ。凝っているところをほぐすのにそれ以外のところがぐにゃぐにゃするので、上手にやらないと笑けてしまうみたいなことを言っていた。これまでプロじゃない人に肩とか揉まれるとグフグフ言っていたのはそういうことだったんだな。前回も絶対笑ってしまう覚悟でいたけど、大丈夫だったのはテクニックがあってこそなんだな。すごいね。今回は腰ヤバめで張っていたとのこと。痛かったもん最近。次こそはタイ古式マッサージ行きたいけど、小顔というキーワードも気になってしまう。あとむくみ。

明日からまたがんばろう。