オンラインサロン潜入中
昨年12月から、「積読チャンネル」というYoutubeチャンネルのサポーターコミュニティ「積読サロン」に入ってみたところ楽しいので布教していく。
「積読チャンネル」は書店員の飯田さんとインターネット芸人の堀元さんが次におすすめの本を紹介して視聴者の積読を増やしていくYoutubeチャンネル。選書の幅も広く、学術系一般書から文学作品(歌集もあるよ!)まで、紹介する熱量と聞き手の散らかしから生じる知的興奮が相まってとてもすごく面白いので、積読が趣味のつみんちゅの私やあなたにぴったりだね! 紹介された本が面白そうだと思ったら、バリューブックスですぐに購入できて積読を増やすことができます!
それで、本好き&積読チャンネル好きの人々との交流ができたら楽しいかなという軽い気持ちから(あとチャンネルが存続して欲しいという気持ちから)、サポーターコミュニティの「積読サロン」に入ってみた。月額1000円。お財布にも優しいね。ホリエモンのサロンは月額10000円(+税)で時々ホリエモンがキレたりするらしい。地獄か。
積読サロンはDiscordというアプリ上で運営されていて、さまざまな情報交換や買った・積んだ・読んだ報告、存在を感じるだけの読書ルームなど、メンバーが発言・交流しやすいようにモデレーターが日々耕して刈り込んでくれておりええ感じのプラットフォームが用意されている(そして日々良くなってるのよ)。
オンラインサロンってアクティブなユーザーが2割くらいらしいのだけど、ここはもうちょっと少ないのかなっていう印象。コンスタントに名前を見る人1割いないのでは? サロン特典としてYoutubeでカットされた特典動画(バリューブックスで本を買うと購入者特典としてついてくる動画と同じもの)が見れたり、メンバー限定動画もときどきアップされるので、リアルが充実していて余裕のある民はそれだけでも満足なのかもしれない。私はどうせならアクティブな2割の方に入って元を取りたい。だけど誰彼かまわず絡みまくるのはあんまり良さそうじゃないし(入ってみたところ予想よりもはるかに落ち着いた雰囲気だった)、郷に入ればなんとやらでまずはこの場のお作法をと思ってこのコミュニティでパワーを持っている人をチラ見しながら受け入れられるように工作しています。あわよくばもうちょっと交流できるようになっていきたいなあ。札幌市部(北海道支部)でリアル読書会とかインプット奴隷合宿とかできんかなあ。まずはあんまり使われていないっぽいボイスチャンネルみたいなのもうまく活用できたら楽しいかなとか思案中。そんなこんなでもっと楽しむことも視野に入れながら、いろんな情報交換やちょっとしたアウトプットなど、ブログとかインスタとかでやってたことが積読サロンにスライドして、「いいね」もらえたりフィードバックがあるから欲求がかなり満たされてブログを放置した。インスタも放置した。でも、生きてます。心身ともにあまり元気ではありませんが積読サロンは楽しいですよ!
これだけだとなんなので最近読んだ本ですが、直近で久しぶりに学術系で内容濃いめな本を読んだので近況報告ついでの読書記録。
『運動しても痩せないのはなぜか』ハーマン・ポンツァー著、小巻靖子訳。
タイトルだけで心に阿鼻叫喚が渦巻きます。運動しても痩せない前提やめて! 私たちの夢を壊さないで! 運動するつもりが全くないにも関わらず立ち込める不穏と緊張。
サブタイトル行きましょう。〈代謝の最新科学が示す「それでも運動すべき理由」〉いいですね。帯文もすごい。〈人類進化と代謝の最新研究が、長年のダイエット論争に決定的データーを突きつける。1日の総消費カロリーは、運動しても増えていなかった!〉
カバー袖に決定的要約が書いてあって、本書の主張はこの要約の通りなのだけど、著者が行ってきた研究の舞台裏をサファリツアーのように垣間見ているような臨場感もあり(アフリカで狩猟採取民族の生活に密着したりしている)、筆致も見事でウィットに富んで面白くて読みやすい。一方で運動しても痩せない理由がわかって切なくなった。え!運動したら痩せるじゃん!という向きには、もちろん痩せるんだけど、注釈を多数つけなければならない。人体は単純な機械のようにはできていないのだ。人間の代謝の進化とその仕組みの精巧さと柔軟さに、ほんとうに上手くできておりますのねえという感動と、やっぱり現代に生きる私用にはなってないんだなあという切なさが押し寄せてくる。悲しい真実との直面化を迫られて元気なくなるみたいなこともあり、読了に結構時間かかりました。多分、気になる人は気になっちゃうと思うので、私的面白かったポイントを少しだけ紹介するね。興味を持ったらぜひ読んで。
おもろポイント:二重標識水法の革命
動物の1日の総エネルギー消費量を計測する革命的な方法。対象を酸素マスクやトレッドミルに縛り付けたり、メタボリックチェンバーに閉じ込めたりしなくても、生体に無害な同位体入りの水を飲ませて尿(または血液)を1日おきに数ml採取するだけで消費カロリーがわかっちゃう(多少おしっここぼしちゃっても大丈夫!)。しゅごい!
霊長類の代謝は遅い:ヒトだけ違う戦略をとった
霊長類の代謝の速さは他の哺乳類の半分。ゆっくりとしたライフサイクルと長寿。ただしヒトだけは飛び抜けて他の霊長類より速い代謝を持つ。ヒトの代謝革命を起こしたのは「分け合う」こと。代謝率の増加と高い体脂肪は関連している。また、肝臓と消化管を小さくすることで脳を大型化するエネルギーを賄い、知能も向上した。
「健康食」などない:パレオダイエットはうそ
ヒトは農耕以前にも穀物(パンすらも)を食べていたし、ヒトの食生活は多様で、手に入るものを食べて同じように健康にやっていけたという十分な証拠がある。
重要概念:制限的日次カロリー消費(モデル)
1日のカロリー消費量は活動量の違いに応じて変わるのではない。カウチポテト族そのものである人とほどほどに活動的な人を比べると200kcalほどは違うが、ほどほどに活動的な人と非常に活動レベルが高い人(例:狩猟採取民族のハッザ族)との間には違いは見られない。体はライフスタイルが異なろうと、1日のカロリー消費を一定の狭い範囲内に納めている。
※摂取カロリーを減らせば痩せるが、脳はエネルギー収支が合うように常に監視しているぞ。big brother is watching you! 現代の食べ物おいしすぎて食べすぎる&非常に不活性な生活をしているとエネルギーが余計な炎症反応に回されて食欲の中枢である視床下部の働きがおかしくなるということも肥満の要因のようだ。
それでも運動が重要な理由:何がトレードオフか
運動に使われなかったカロリーで余計なことをしてしまう人体。過剰な免疫・炎症反応、ストレス反応、生殖ホルモンの過剰による疾病リスクの増加。食事を変えて減量達成後は体重の維持にも運動は役立つ。
最新の研究の果実を楽しみながら得ることができるお得な本だ。でもまだまだ科学の営みは中途の道のはずだ。この現実がつらいので、この説くつがえらんかなーと一縷の望みをかけてもいる。科学者さま、この説を覆すか、抜け道を見つけてお願い! 私はおいしすぎる食べ物を食べてあまり運動しないで病気にならないで痩せたいんだから。
自己啓発は終わらない
ひょんなことから・・・
基本的には起きないほうが良かった出来事
タスクを抱えて予定の休息ラインを未来側にずらすと結局は総崩れになって自分自身にがっかりしてしまう。しかしゆっくりと十分な休養がとれたら、これら一連のことはすぐさま記憶から抹消されて、再び同じことが繰り返されるまで思い起こされることはないのだ。そしてスタバでベストセラー作家に迷惑とティーラテをかけることになった。
己の能力に応じて休まないと碌なことにならないと反省している。私の教訓を得るために世界は存在するのではないのだけど(いや、実際のところ、世界ってそういうものなのかもしれなくても)、私にとって今回の出来事はそのことを痛感させられるものだった。まあだいたいそのようなことが起きて、自己啓発書について考えることになった。
※注釈:成り行きを省略しすぎて何が何だかわからないと思うので注を入れることにした。迷惑とティーラテをかけてしまった方の著作物が自己啓発ジャンルで、行きがかり上、その本を手に取ることになったのだ。その方は気味悪いくらいにとてもすごくいい人でした。
釈然としない気持ちで・・・
自己啓発書はいけすかない
やらかしから数日後、こころなしかしょんぼりとして書店パトロール中に、文芸誌コーナーで認識に飛び込んできた雑誌があった。
誌面デザインが素敵で文章の密度もこざっぱりとして読みやすそう・・・
その本を読むにあたって釈然としない気持ちがあったのだろう。あの手の本はハッキリ言って好きではない。だけどこれまでのように斜に構えて小馬鹿にする以外の向き合い方を今はしたい。いけすかない教祖様じみた言説と切り捨てるのは今回ばかりはあまりにも忍びないではないか。だけどはたしてどういう気持ちで読んでいったらいいのだろうか。わからない、とまどっていた。だから自己啓発にまつわる陰と陽、リスクとベネフィットについてさまざまな側面から眺め、その歴史と社会的要請まで視野を広げることができれば、本当の意味で批判的目的的に読むことが可能になるのではないか、そうなってはじめてあの本との出会いをことほげるのでは、と考えた(もちろん後付けで)。
『SPECTATOR 自己啓発のひみつ』内容の概略と感想
自己啓発書は一瞬のきつけ薬、元気の前借り、レッドブルがぶ飲みであって、ちょっとやる気を出させてくれるというのはもちろんポジティブな側面だけど、過度に問題を一元化したり単純化した断定的なメッセージに胡散臭さを感じる。そんな気持ちに「わかる、わかるよ」と寄り添う導入も私的に好印象なうえ、情報としては価値判断に偏りすぎずに、ポジションから一歩引いて提示してくれているであろう点もありがたい。
自己啓発の歴史と系譜がコンパクトにまとまりよく整理されて、識者インタビューも読みやすくおもしろい。
私なりに気になった点を本書から引用しながらまとめてみる。
自己啓発本とは〈個人の生き方や方向性を明確に示す指南書〉であり、〈かつて「ビジネス書」は経営戦略やマクロ経済論が売れ筋だった〉が、バブル崩壊以降は〈能力開発、自己啓発ジャンルが一躍脚光を浴び〉るようになった流れがある。また、〈80年代頃までは自己啓発/自己改善系の本というと、名をなした社長が社員に人生訓を説くような本が多かった〉のに対して、〈2006年頃から、一般には無名の著者による大ヒット作品が目につくようになった〉という変化もあるようだ。成功者を仰ぎ見る(または対経営者)目線から、一般の労働者へ。バブル崩壊から日本経済は長期の停滞期へと突入し、2000年代以降には「自助」や「自己責任」という言葉が頻繁に言われるようになる。2000年代以降の自己啓発本ブームは、もはや「公助」を当てにできず、「自助」するしかないという現実の過酷さの反映であるのかもしれない。
インタビューは真鍋厚氏、大澤絢子氏、齋藤直子氏の3本を収録。
真鍋氏のインタビューでは自己啓発の二つの方向性(①社会的成功と②主観的な幸福度を志向する方向性)についての話がわかりやすく、興味深い。もうかつてのような成功ストーリーは信じられず、今の時代では主観的な幸福度を上げていく方が手を出しやすいが、その暗黒面としては「誰も自分以外には配慮しない地獄のような社会が温存される可能性がある」と警鐘を鳴らす。まったくその通りだと思う。というか、もうその社会きてると思う。また、エビデンス主義の台頭にもフォーカスし、「何か一つのことをやればすべて解決するみたいな思考が自己啓発と結びついている」と読み解いている。(特定の)健康増進にいいことがエビデンスとともに紹介されること自体は好ましいことだけど、それがやっぱり行きすぎてる。なぜか仕事のパフォーマンスや年収を上げずにはいられないようだ。
自己啓発分野では、エビデンス言説にシフトしているところがあります。とはいえ、受け取る読者にとってはほぼ同じように機能しているだけでは、とも私は見ています。疑似科学を信じやすい層が、割とまともな科学ベースの健康法や人生論に流れてきている可能性です。
めっちゃ頷けるわ・・・ 教祖様感は読者(信者)側が醸しているっぽいな・・・
ビジネスと瞑想や自己管理ツールの関係も少し立ち止まって検証していくことが必要な段階なのかもしれない。企業側にむしろ都合よくコスパよく使われて、企業体質の改善から目を背けることにつながっているかも? その視点はなかったので新鮮だけど、なんてディストピアなんだ。インタビューの後半で、ゲノムを解析したオーダーメイド型自己啓発の時代が来ると予想されているけど、私はこれは厳しいのではと思う。だって今ですら自己啓発書読んで(買っても読まない人の方が多そうだけど)、いいと思ったことですらなかなかやらないでしょ人類は。結局は、あなたにとって何をすればいいか、は割とどうでもよくて、地道な行動変容のキーを探っていくしかないってこと。で、もうそれってある程度明らかになってると思うけど、それだって時と場合と人によって難しいわけで(・・・虚無)。
大澤氏のインタビューでは自己責任論をもう少し掘り下げているのと、ポジティブ思考の源流であるニューソートの成り立ちとキリスト教的世界観に与えた影響についても面白く読んだ。齋藤氏のインタビューは主にエマソンの「自己信頼」の思想について。
自己啓発書をまとめて読んでみたでは日本篇として20選、米欧篇として10選それぞれのコンパクトな書評が読める。
自己啓発書1954〜2022全159冊(あくまでピックアップだと思われる)のリストを見ると、自己啓発ジャンルに含まれるものって結構幅広く、そうと思わず読んでいたものもあった。
論考の「自己啓発のパラドックス 負のループに陥らないために」では「ファスト教養」現象から教養自体のリスクを見直し、修養主義のカウンターアクションとしての教養主義とその凋落を振り返る。自己啓発の陰法師である「自己責任論」と教養主義に巣食う差別的メンタリティに触れる。現在の資本主義の実像である「パイが小さくなっていくのに獲得競争は熾烈化していかざるをえないという事情」は、自己啓発に励むほどに下降していくという負のループへと容易に繋がりうる。成功/失敗にまつわる個人の努力以外の要因を無視するべきではなく、(経済的)成功=幸福の物語を解体することと、失敗してもだいじょうぶな社会の構築まで視野を広げることの重要性が訴えられている。無理のない堅実な論だと思った。
積読チャンネルでも!
タイムリーに良いものに出会って嬉しかったが、さらにタイムリーに最近ハマっているYouTubeチャンネル『積読チャンネル』でも自己啓発本の歴史についての動画があがっていた!
この動画は尾崎俊介の『アメリカは自己啓発本でできている』という書籍を紹介する動画。Amazonリンクは自粛(バリューブックスを応援)。動画を見て私もこの本を読みたくなった。
自己啓発本の発生条件について、「出世しようと思えばできる環境(社会流動性)」と「出世したい人がいる」という二つの条件が必要で、意外とこの二つが満たされている環境が少ないってことが指摘されていた(自己啓発書市場はほぼアメリカと日本が独占しているらしい)。自助努力系とニューソート(引き寄せ)系の2系統をたどる解説もあり、掘ったり広げたりしながらの対話形式で面白く聞けるところがこのチャンネルの魅力だ。SPECTATORで見た通り、個人の努力や思いの強さに還元する主義は行きすぎると冷たい論理になり、社会正義やコミュニティの力を軽視することになるとは思う。だけど、この動画で言われているように、自己啓発ブームの近年、つまらなかったりひどい理論で書かれた自己啓発書が世に溢れてしまっているせいで、素晴らしい教えや考え方の自己啓発書が埋もれてしまっている現状が、私のような冷笑系を量産し、自己啓発書への風当たりの冷たさにつながっているのかもしれない。なんでもそうだけど、自己啓発書にも良いものはたくさんあるのだから、まずは決めつけない姿勢で読んでみたい。
系譜に準える、特定の言説が流行する社会的背景を考える、エビデンスの飛躍に注意し、適時ファクトチェックをする、やる気が出たら感謝する、そのようにして自己啓発本を読んでみると新しい体験になるのではないかと思う。なんとなく気持ちも整ったので、しっかり読んでいきたい。やるぞー。読む前にやる気出ちゃった。おあとがよろしいようで。
10月はゴリラ月間(読書記録)
須藤古都離『ゴリラ裁判の日』
こちらは10月の読書会の課題本。メフィスト賞受賞作。設定の緻密さと次のページに何が出てくるのか予測のつかない大胆なストーリー展開で最後のページまでワクワクしながら読める傑作だった。物語の下敷きとなった米シンシナティの動物園でゴリラの囲いの中に落ちた3歳の子どもを助けるためにやむを得ず射殺されたハランベの事件(https://www.bbc.com/japanese/36411264)をなぞりながらも「どんな命も尊い」みたいなありがちな結論に飛び付かずもう一歩先に踏み出そうとする意欲作で、満場一致のメフィスト賞受賞も大納得。
カメルーンの動物保護区で生まれたゴリラのローズが主人公で、彼女は母ゴリラと当地のゴリラ研究者から手話を学び、完璧なアメリカ手話で人間たちとコミュニケーションが取れる。カメルーンのジャングルから親善大使としてアメリカへ渡ったローズのシンデレラストーリーを描きながら、認知的には人間に近く、身体的・遺伝的にはゴリラであるマージナルな葛藤の描き方が見事で、登場人物もキャラが立っていて魅力的だった。読みやすい簡潔な文体も魅力で超おすすめ。
この『ゴリラ裁判』がきっかけで、ずっと読みたかったけど入手に二の足を踏んでいたダイアン・フォッシーの『霧のなかのゴリラ』をやっと読めた(古本で買うのは高いので、近隣の大学図書館で読んだ)。ダイアン・フォッシーはマウンテン・ゴリラの研究者で、30代からアフリカに渡りルイス・リーキーの支援を取り付けてヴィルンガ山地に研究所を設立した。以来18年間をほぼ山中でゴリラたちと暮らしたが、人嫌いで気難しく、密猟者たちとの戦いに明け暮れ、最後には殺害されてしまう。業績とともにその強烈なキャラクターでも毀誉褒貶のある人のようで、私は彼女の孤独と強さにずっと惹かれていた。
『霧のなかのゴリラ』はシガニー・ウィーバー主演で映画化もされている(邦題は『愛は霧のかなたに』)。映画はAmazonで取り扱いがあるものの何かの事情で現在日本での配信はできないみたいでまだ観ることができていない。こっちもいつか観たい。
『霧のなかのゴリラ』はフォッシーの観察してきたゴリラたちの年代記で、「カリソケ研究センター」の設立譚やカリソケでの暮らしと調査について、よく落とし穴に落ちるニイラマチャベリ(男もなしに森に住んでいる年増女=フォッシーの現地語のあだ名、後に本当の意味が判明)がいかにして密猟と戦ってきたか、ゴリラへの尽きせぬ情熱と愛情が時に過激に基本的には素朴な語りで綴られている。
(↓リンクは早川書房版。私は平凡社ライブラリー版を読んだ)
念願かなって機会が成就した嬉しさも束の間、「あの」ダイアン・フォッシーの素顔もゴリラのことももっと知りたくなってしまい、ゴリラについてはわれらが霊長類研究のリーダー、前京都大学総長の山極寿一兄貴の書籍を当たってみることに。山極氏、一般書も多く手がけているが、それらの多くはゴリラから人間社会に何かを還元しようというテーマだ。ゴリラ「から」色々学びがち。だけど私はゴリラ「を」知りたいのでなんかちょっと違う。結局、『ゴリラ 第2版』というど真ん中ゴリラ本を読んでみることにした。
野生下のゴリラは伝統的にフォッシーの設立した「カリソケ」と「カフジ」という地域の東ゴリラが研究されているらしく、『ゴリラ裁判の日』のローズや世界中の動物園にいるニシローランドゴリラの情報はやや少なめだった。東と西ではチンパンジーとボノボと同程度の遺伝的差異があるということに驚いた。西のポピュレーション間の遺伝的差異も大きく、人種間の差を上回るのだとか。これまで動物園での交配は特にその点を考慮していなかったことの指摘もなされている。西と東とではまた食性や群構成の違いもあり、東の知見をそのまま西に当てはめることはできない。群れの大きさや構成については、西では複雄郡(ひとつの群れのなかに性的に成熟したオスが複数頭含まれる)が稀れで、存在したとしてもその期間は短く、ほぼ単雄郡しか見られないといった違いがある。この点が、『ゴリラ裁判』作中の嬰児殺しのシーンが西ゴリラの典型例と異なるポイントでもあるよう。
ゴリラが魅力的なのはもちろんだけど、アフリカでの研究(フィールドワーク)というテーマに私はいつも惹きつけられてしまう。他者と知り合うことの果てしなさ。未知のものがここにあるのだという肌触り。共存という意味では少数の研究者が森に分け入って異種の特定の群れと互いに境界線を引いてはボカしズラし合いながら生活の一部を共有することよりも、異なる文化思想価値観生業をもった利害の衝突する人たち(“密猟者”を含む保護区周辺に暮らす人々、アフリカの政府)とどのように話し合うのかといったことのほうが難易度が高く複雑であるかもしれない。「現代的」あるいはいわゆる「西洋的」価値観をかざして一方的に教え、わかってもらおう、強制(または矯正)しようなどという考えがなんと幼く愚かなことか。その誤謬を正せないまでも、知っておかなくては(私は特に、他人よりも優れた視点を持っていると思い込みがちなので。本当にそういうところがあるので)。自分の思ったようにうまくいかないのを相手のせいにしてはいけない(そう思える私ってハイヤーだとやっぱり思っている節があったりして。セルフツッコミ、終わり)。『ゴリラ 第2版』でも密猟と保護対策については一章分(第7章)をさいて取り上げられていることに全く不思議はなくて、類人猿を知ることは人類の隣人を知ることに他ならず、アフリカ的価値観も私たちの隣人であり私たち自身であるのだから。密猟者を西洋的観点から一方的に悪で未開と決めつける態度がむしろ解決を遠ざけているという警鐘から学べることの広がりは果てしないようだ。ゴリラ「を」知りたくて手に取った『ゴリラ 第2版』で、やはりゴリラ「から」自分自身のことを知らされてしまうとは・・・ ぱねえ・・・
「あの」ダイアン・フォッシーの素顔については、サイ・モンゴメリーの『彼女たちの類人猿』で読んだ。
この本、どうやって見つけたのか覚えていないんだけど(Amazonのサジェストかなあ)、フォッシーは古人類学者のルイス・リーキーによって資金援助を受けてヴィルンガ火山郡に送り込まれていて、フォッシーの前にはチンパンジーのジェーン・グドールが、フォッシーの後にはオランウータンのビルーテ・ガルディカスという女性がそれぞれの類人猿の住む森へと派遣されている。なぜ女性ばかり(フォッシーの他は若い女性)を類人猿の元へと向かわせたのか(グドールとフォッシーは正規の科学教育を受けていなかったため、ケンブリッジで論文の面倒を見させて学位を取らせている。いきなり論文博士だよ。夢ある話だなあ)。めっちゃ気になるじゃない。そこにきて本書は彼女らルーキーズ・エンジェルズ(リーキーは彼女らのことを“三人のプライメイツ(霊長類)”と呼んでいた)の三者三様の個性と彼女らの研究手法について、女性という視点も加えた“科学”のルポタージュで興味深い。「はじめに」で、彼女たちと研究対象である動物たちとの間の特別な信頼関係について語られていてそれはとても深く敬意を表すようなものだった。人間と動物との関係は普通、人間が書いた契約書に基づいたものである。家畜やペットは、そもそもの生存を人間に頼らざるを得ず、あらかじめ他の選択肢を持たない。野生動物とのあいだにはこのような契約はないが、研究者は動物を隠れた位置から観察したり、麻酔して発信機を取り付けたりする関係は動物たちの意思とは関係がないものだ。しかし彼女たちの関係は違う。彼女たちと動物たちとの信頼関係のための契約書は人間が書いたものではない。その契約書を書くのは動物なのだ。彼女たちは支配を放棄するところから研究をはじめ、相手の条件に基づいた関係を築いた。それは科学ではない、もっと数値を重視するべきで、研究対象と情緒的な関わりを持つべきではないと考える専門家が多数派であった中で、当時彼女たちしか成し得なかった研究成果は学会に大きなインパクトを与え、そして、世界を変えてしまった。
フォッシーについての章はタイトルだけでも刺激的で、第六章は「ニイラマチャベリのいけにえ」だし、第九章は「魔女ーダイアン・フォッシーの狂気」。山に登る前のフォッシーの虚栄的な生活や、ザイールからの逃避行話がいかに粉飾されたか、「三人の霊長類」階層における自分の地位を捉えるやり方がいかにゴリラ的であったかについての逸話、密猟者のリーダーの子供を誘拐した話、密猟者を捕らえて拷問した話(真偽不明の話がどんどん大きくなりナショジオからの支援打ち切りの一因となった)などなど、近づきたかったフォッシーの姿が朧げに見えてくるようなエピソードが豊富だった。てっきり私は、フォッシーのことを人間社会のルールに馴染めず、純粋にゴリラになりたい閉じた人だと思っていた。気難しく、人を遠ざけるのも、言葉の裏や暗黙の了解を読めない生きづらさから来るのだろうと。でもこの本を読んだらむしろ小児期の逆境的な体験による不安定な愛着スタイルの形成が人との関わりを困難にしているように思えた。フォッシーがいなければあれほど多くのゴリラは殺されなかったという人たちがいる。長くその地で暮らし、山中での狩猟を生業としてきた人々と戦ってはいけなかったという人たちがいる。もちろんそうだろう。だけど私もまた彼女の魂のために祈りたい。信じられるものを見つけて、最期の瞬間まで愛するものたちのために誠実だった過激で不器用なフォッシーのために。
フォッシー、フォッシー、怒りっぽくて気難しい、暴力的で自滅的な人間嫌い、二流の科学者、真面目な大学生をだます人。あなたがルワンダに足を踏み入れなければ、きっとあれほど多くのゴリラが死ぬことはなかっただろう。フォッシー、厄介者の天使よ。わたしは祈りも魂も信じていないけれど、あなたの魂のために祈ろう。あなたたちの墓の前にいたあの瞬間に感謝し、わたしは一生あなたのことを忘れない。
ロバート・M・サポルスキー『サルなりに思い出す事など』p.300より引用
さて、ニイラマチャベリの本当の意味について。なんとなく知りたくなかったような話で、フォッシーは知らないままでいたみたいなのでなにより。生前の意思で墓標にも書いたんだから。ニイラマチャベリは「男もなしに森に住んでいる年増女」という意味ではなくて、「家族のなかに他の人より小さくてなんでもちょこまかやる女の子がいるばあい、その子をニイラマチャベリと呼ぶ」のであって、フォッシーはでかい(180cm)。元々はよくフォッシーと一緒に山に登っていた現地の小柄な女性についたあだ名が、その女性が山に来なくなった時にフォッシーに流用されたというのが事実らしい。でもゴリラの家族の中にいたら、フォッシーも小柄に見えるんじゃないかしら?
読書会きっかけでなんだか遥か遠くまで来てしまったけど、楽しかった10月の読書、ゴリラ編でした。
10月15日:最近読んだ本について
いつものことながらお久しぶりの読書日記です。もっとこまめに書きたい。前回の日記以降に読んだ本、買った本、読んでいる本についてのひとことを書いていこう(結局書ききれず、最近読んだ本だけ)。
安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』
あと2ヶ月半で2024年終わるけど、安部公房生誕100年らしいので未読を集めながら読んでいる。これは初期の短編傑作選のような作品。表題作の『デンドロカカリヤ』は主人公のコモン君がデンドロカカリヤ(菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない植物)になってしまうお話。なんで植物なの。
結局、植物への変形は、不幸を取り除いてもらったばっかりに幸福をも奪われることであり、罪から解放されたかわりに、罰そのものの中に投込まれることなんだ。
動物じゃなくて植物であることがなにか重要なことらしい。本作の他にも『手』では語り手が鳩から出発して最終的には一発の銃弾となったり変身が忙しい。
もう一つの表題作『水中都市』では以下のようにおやじが魚になってしまう。
ショウチュウを飲みすぎると、人間は必ず魚類に変化するんだ。現におれのおやじも、おれの見ている前で魚になった。
いまショウチュウ飲んでるから気をつけよう(おい禁酒は)。『変身物語』など読みたくなった。ちなみにコモン君は東大の植物園(小石川植物園)のワダンノキ(和名)がモデルといわれている。何かのついでがあれば見に行ってみたい。
ルシア・ベルリン『楽園の夕べ』
でましたね。三作目。楽しみにしていました。さきだって『すべての月、すべての年』が文庫化されて、単行本持っているのに訳者サイン本を買ってしまった。
まず装丁!釣りをするルシアのカバー写真の可愛いこと、輝いていること、これまでの3冊の中で一番好きな写真。何作かこれまでの二冊に入っている短編と同じ題材で書かれているものもあるけど、そのなかでも私は『妻たち』がすごく良いと思った。同じ男を過去に夫に持った女が二人、ラムを酌み交わしてべろべろに酔っ払い、お互いの悲惨さを笑い、過ぎ去った幸福が憐憫を誘って涙する。
相変わらずの、素敵な岸本佐知子の訳とあとがきも必読。あとがきに共感が100%。
ルシア・ベルリンの作品について、私に言えること、言いたいことは一つだけだ。彼女の書く文章はほかの誰とも似ていない。読むものの心を鷲づかみにして、五感を強く揺さぶる。読んだときは文字であったはずのものが、本を閉じて思い返すと、色彩や声や匂いをともなった「体験」に変わっている。
ほんとこれなんだよなぁ。いつもありがとうの気持ち。
四方田犬彦『見ることの塩・上 イスラエル/パレスチナ紀行』
二〇〇四年の三月から六月にかけて、著者である映画史家がテルアヴィヴ大学に滞在した時の見聞をまとめたものが、二十年の時を超えて緊急文庫化された。情勢などは大して変わっていないのだろうと思う。時間がたった分だけ、結び目は硬くなり風化して、自分だけの現実を生きていくのだろう。イスラエルという国の成り立ちについて、距離を保った説明がなされるが、心情的にはアラブ系に肩入れするポジション。イスラエルに暮らすユダヤ人も一枚岩ではなく、さまざまな思惑が交錯する様相であることがわかった。そしてユダヤ人だけではなく、ガザと西岸に住まうパレスチナ人もまた、イスラエル・アラブに対して複雑な感情を抱いてもいる。
新歴史学派のイラン・パペの運動について興味を持った。
多くの参加者がアラブ人虐殺の話を初めて聞いて、信じられないといった感想を述べ、抵抗したり、拒絶したりした。だが丹念に何回も話を聞いてもらっているうちに、彼らも少しずつ耳を傾けてくれるようになった。けっして先を急いではならない。今とても考えられないことは、来週またゆっくりと考え直してみようという態度で臨まないと、運動は駄目になってしまう。
佐藤真の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』も観てみたい。パレスチナ問題だけでなく色々な問題に関して私は悲観的だし、私にできることは何もないと思っているけど、ゆるく追っていきたい。
ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』
イスラエル・パレスチナ問題を描いた中短編集。密入国を試みる男たちの末路を描いた表題作『太陽の男たち』、オレンジのなる土地を追われて難民となった一日を描く『悲しいオレンジの実る土地』、ラストの諧謔もむしろ悲しい『路傍の菓子パン』、マジックリアリズム的手法で真実を抉り出すような『彼岸へ』、故郷とは何か、置き去りにしなければらなかったものを再び訪れることができるようになったときに、それはいったいどのようなものになっていて、誰のものなのか。ばらばらになった時間のなかで何かを失うということはどういうことなのか。あまりにも想像を超えて迫ってくるような『ハイファに戻って』。文庫版解説に西加奈子。作者は爆死している。
手羽先食べながら書いたらめっちゃ時間かかった。もう二度としない(手羽先食べながら書いたりは)。まだあるけど疲れたので書ききれず、次回は須藤古都離『ゴリラ裁判の日』から。読書会の課題本で、私に霊長類ブームが来た。ゴーリラ、ゴリラ霊長類(バーニラ、バニラ高収入のリズムで)。
9月30日:まんじりフェスティバル
やっほー。ご無沙汰日記。そして衝撃、9月終わるってよ。この頃のことをダイジェストで振り返ると、相変わらず酒飲んだりもう酒はやめると言ってみたり、体重が減らなかったり、体調が悪かったりした。去年と違う点を振り返り、酒飲まないのはもちろんのこと、睡眠不足もただそう、22時30分までには布団に入ろうみたいなことを考えて生きていた。気まぐれにメンタリストの方のDaiGoが勧めてたサプリメント(メラトニンの徐放錠)を飲み始めてみたりしていた。普通に良さそう。違いを感じます。それから一生腸内細菌が死滅しているのでこれもDaiGoが勧めてた新ビオフェルミンSプラス錠課金を始めてこれも結構いい成績を残している。元気がなくてもせめて健康になりたい。去年通年でつけていたハビットトラッカーも再開してこの頃の体調不良からなんとか抜け出すぞと色々と画策していたのであります。日記書くネタはそれなりにあったと思うけど、あまり振り返っていると日記にならないのでこの辺にして、昨日今日のことを。
昨日は定例の月末の読書会。課題図書はブレイディみかこの『他者の靴を履く』。ブレイディみかこは読まず嫌いだったのでこの機会に読めてよかった。エンパシーの方の共感について色々な角度から考えてみた論考なんだけど、ちと散漫になっている感じが否めない。エンパシーが新鮮に映るっていう事態が私にとっては新鮮だったりもして。いつも読書会の時(であってもなくても休みの日の多くは)は、市内中心部をぶらぶらしてカフェ行ったり本屋行ったり買い物したりして時間が来たら会場に向かうって感じなんだけど、昨日は家を出るまでに読み切りたい本があったりしてぐずぐずしていてなんか時間がうまくいかず。家を出る前にちょっとうとうとしたからカフェインぶち込んでいきたかったんだけど間に合わずにややぼんやりしたまま読書会に参加することにあいなった。例の如く楽しい時間はあっというまにすぎてあまり喋れなかった人もいたけど、終了後もわーわーいうてそれなりにお酒も飲んで帰宅。帰宅後もちょっと追いアルコールして寝る支度して結構眠かったしメラトニンなくてもいっかなって思ったのが大間違いで昨夜はどうしたことが一向に眠れず。まんじりともせずって感じで、まんじりですよまんじり。まんじりってなんだよだんじりの親戚なのか。まんじりってこたあないだろうとか。まんじりがきになりだしてもうだめだ。だけど起きちゃおみたいなことにもならなかったのでそれなりに浅くまどろんでいたのだろうか。もう今日は死亡決定くらいに思っていたんだけど、寝てないテンションなだけかもしれないけど割と元気でした。歩くのもめちゃ速い、みたいな。昼過ぎぐっときたんだけど。
読書会終わりに最近買った本の話などを初対面の参加者のお姉さんにしていたら、共同通信大阪社会部の記者らによる『ある行旅死亡人の物語』が面白いというのを聞いたので積読の中からピックして今朝からさっそく読み始めた。
身元不明の高齢女性が現金3400万円を残して孤独死。記者二人が残されたわずかな手掛かりを手繰り身元調査に乗り出す。いいね、わくわくするね。遺品の中にあった「沖宗」の印鑑から調査は全国の沖宗さんローラー作戦へ。家系図の網をたどり、故郷を歩き訪ね、生前にわずかに他者に語った断片からその半生を追うルポタージュは、一人の孤独な女性の生きた軌跡の証人となる。謎は多く残り、彼女が孤独に隠れるように生きなければならず大金を部屋の金庫に保管しながら倹しい生活をしていたこと、夫や子どもがいたのではという過去に付き合いのあった人たちの記憶、犬のぬいぐるみの「たんくん」に子供服を着せて可愛がっていたらしきことが侘しさをかきたてる。人が生きて死ぬことに真摯に向き合わなければ果たせなかったのではないかと思わせるような仕事。すばらしい。一気読みでした。
またしばらくせっせと積読を減らさねば。10月は文芸と人文を交互にせめていきたい。
9月6日:廃馬を撃つのはやさしさか
嫌な夢を見た。なぜか雷についての蘊蓄(口から出まかせ)を言って、特に周囲から突っ込まれてはいないけど、自分の中で嘘ばっか言ってしまったことを悶々とする、みたいな夢。夢でよかった〜。リアルにやりかねない感じで怖い。YouTubeでメンタリストDaiGoの動画見てから寝たのが良くなかったんだろうか(絶対そうだろ)。起き抜けの身体の重さがすごい。そういう時は体重も実際に思い。体重やばいのどうにかしてほしい、自分。ほんとぅに、本式に、酒を断とうかなあ。昨日も少し飲んでしまった。串鳥では烏龍茶飲んでたのに、帰ってきて寝る前に焼酎ストレートで2杯。とにかく、今日以降9月は自宅禁酒遵守で行こう。土日であっても。引き続き、外ではOKにしよう。他人と話したい。
終業後、ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』を読んだ。
いろんなところ(どこかは忘れたが)で引用されていてなんだか記憶に残っていた作品で、タイトルもかっこいい。彼らとは誰か、廃馬とはなんの隠喩かと興味をそそるし、原題(They Shoot Horses, Don't They?)とも遠からず。大恐慌時代のハリウッドでエキストラの仕事にあぶれた監督志望の青年(主人公)が撮影所の付近で出会った女優志望のグロリアに誘われて彼女のパートナーとしてマラソン・ダンスに出場する。〈被告は起立しなさい〉という判事の声掛けから小説が始まり、言い渡される判決文の間に主人公の回想が挿入され、グロリアを撃つことになるまでの顛末が明らかにされるという構成。訳者のあとがきによると、マラソン・ダンスは実際に1920年代のアメリカを特徴づける娯楽であった。〈一九二三年にニューヨークのある新聞は、「これまでに生まれた、気ちがいじみた競争のなかでも、ダンシング・マラソンはその狂気の沙汰という点でほかの競技をしのいでいる」と伝えている。〉本作のコンテストでは、1時間50分踊って、10分間の休憩を繰り返すという過酷さ。
文章について、特に序盤の会話文がこなれていないというか、日本語として噛み合っているように思えず、訳はこれでOKなのか??と心配になったけど、後半は問題なく読めた。主人公が自分自身に語りかける内言は会話と区別した区切り符号を使ってほしいと思ったけど、原文の尊重かもしれないからなんともいえない。文体や描写の魅力なのか欠点なのか、時間経過による人の狂いの表現は薄い。もともとハードで問題のある人物なのか、コンテストが続いておかしくなってきたのかがいまいち読み取れない。主人公もまわりもどんどんおかしくなってくる展開がはっきりしていたほうが個人的には楽しめたかも。そして主人公もヒロインのグロリアもある意味変化しない。だけどそれらが決定的にドライでかっこよくもある。(回想パートの)最後の一文が決まりすぎてて憎い。ハードボイルドどころか、フランスで実存主義文学の元祖として高評価されたというのもなんだか納得できる。カミュの『異邦人』との類似点も指摘されている(『廃馬』の方が少し先に刊行されている)が、理由がちゃんと書いてあるので不条理感は薄い。
翻って、現実のマラソン・ダンスについては、コンテストが続くに従い、出場者の行動がおかしくなることも興行の目玉だったようだ。パートナー同士が眠ってしまわないようにお互いを痛めつけ合い、憎しみ合うようになり、睡眠の剥奪によって幻覚状態に陥ったりする…現代では倫理的に絶対にアウト、あまり無理すると死んだり後遺症が残ったりしそう… 見たいような、見たくないような。本作、映画化もされていて(邦題が『ひとりぼっちの青春』なんだそりゃ)、ちょっと観てみたい。
9月5日:オータムの到来
昨日は終業後に読書会で知り合った方とご飯に行った。リアルが充実していない勢の私の生活の中ではちょっとした事件のようなことで、でもすごく嬉しい事件だった。自分がしっかりあるのに人の違いにオープンで素敵な人だなあ。そして同年代と思えないくらい可愛い。今度はこちらから誘おう。人間関係のハードルをもう少し下げてフッ軽になりたい。ひとりも大好きなんだけど、最近自分を相手することに飽きてきてる感じもするので時々窓を開こう。今日は休みで、枯淡珈琲行ってみようかと思ったけど、なんらかの事情でオープンが遅れるというのをInstagramで見て、かねてから行ってみたかった読書室ポワロへ。本当に民家でちょっと入る時ドキドキした。店主の方が素敵可愛いくてビジュアルも好み。あんまり頼んだことないトーストを注文。めちゃめちゃ分厚くてびっくり&満腹。コスパ良すぎじゃないですかね。いいんすかぁ。安部公房の『飢餓同盟』はあまり読み進まず、うとうとしてしまう。ポワロを後にして周辺を少し歩いて、特にすることもなく大通り周辺をぶらぶらして本当にすることがないので帰宅した。明日からオータムフェストなのかぁ。まだまだアイスが食べたいくらいなのにね。フッ軽初めに誰かを誘ってみようかなあ。
帰宅後も安部公房が読み進まず、ずっと眠くてうとうとしてしまう。寝ても寝てもずっと眠いな。夜寝れるんかな。













