読書とカフェの日々

読書感想文と日記

灯台守の話(読書記録)

ジャネット・ウィンターソンの「灯台守の話」を読んだ。

主な語り手の一人、主人公の少女シルバーは崖の上に斜めに突き刺さるようにして建つ家で母ひとり子ひとりで暮らしていた。ある日母が崖から落ち、10歳にして孤児となったシルバーは灯台守の盲目の老人ピューにひきとられ、灯台守見習いとして光を守るための物語を聞き・語る日々を送る。人生で錨をおろせる揺るぎないものを掴みかけたのもつかの間、灯台無人化されることになりシルバーは15歳で再び独りきりで人生の荒波に漕ぎ出していく。灯台の夜にピューから語られた100年前に生きたある牧師の数奇な人生の物語はいつしかシルバー自身の物語と交差していく。

物語の断片が荒波に揉まれるように時間と空間を切れ切れになって散らばって交差する語りから伝わる切実さ。断片を整理して順序よく並べたとして、よく理解したことにはならないだろう。そこにある語られ方に意味があり、意味自体が物語だから。これは物語について、物語ることについての物語だ。孤児のように寄るべない全ての魂の。どんなやり方で話せば良いかわからない人生の。

人生が途切れ目なくつながった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。途切れ目なくつながった筋書きなんてありはしない。あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ。

人生の波間を照らす物語は光だ。それは離散した粒子のようでもあり、波のようでもある。“ストレートに“語ることが真の経路を辿ることとは限らないってこともまた。絡まり合って、溶け合って、過去も現在も未来もいっしょに波に砕けている。どんな地点も時点もここにあって、ここにはなくて。別々の時と場所の小石をひとつの手で拾うことも容易い。

お話しして、シルバー。
どんな話?
その次に起こったこと。
それは事と次第によるわ。
事と次第って?
わたしがどう話すか次第だってこと。

作中のシルバーと著者のウィンターソンの生年は同じだ。ウィンターソンもまた孤児として養父母の元で育てられ、彼らの信仰の中に錨を下ろしたが、15歳で自身のセクシュアリティによって家も教会も追われ独力で大人にならなくてはいけなかった。明らかに自身の人生を重ね合わせて、人生の荒波の中で、確かに掴んでいられるものがない孤独が描かれている。そんな切実さの中にあって核となるメッセージは力強い。
何度もはじめから、物語をはじめられるし、何度も別のやり方で語り直すことができる。それが人生だ。だけどまた、こうもいう。

待っていてはだめ。物語は後回しにしてはいけない。
人生は短い。まっすぐのびたこの砂浜、そこをこうして歩いていき、やがて波が私たちのしてきたことを全て消し去ってしまう。

この語りは唯一無二。どうにも場違いな時にひょいと顔を見せるユーモアも大きな魅力のひとつだ。安定の岸本佐知子訳も洗練されていて、楽しんで読めて、深みもある。傑作でした。

4月20日の日記

昨夜は職場の人と飲んだ。ちょっとした騒動の片がついた慰労会のような飲み会であった。久しぶりにお酒をたくさん飲んで、自分のことなども色々話しすぎてしまって、一晩明けてちょっと後悔。今日は二日酔いになるかなと思ったけどそれ程の不調はなかった。

今朝は目が醒めた後も布団の中でKindle Unlimitedで読んでいた染井為人の「悪い夏」を読んで、ベッドから抜け出した後もさらに1時間ほど読んで読了。市役所の保護課で働く普通の真面目で優しい主人公が、生活保護の周辺の悪い人たちとともに事件に巻き込まれていくちょっとだけミステリ仕立ての物語。ヤクザの悪役が不正受給問題に関して地味にいいことを言ったりするけどステレオタイプの域を出ない。登場時めちゃくちゃクズなキャラが最終的に割とまともというかサラリーマン的哀愁が漂っていて最後はちょっと同情的になった。文章は軽めで特別上手って感じでもないんだけど読みやすくて中盤が特に引き込まれた。最後のドタバタも嫌いじゃないぞ。ここまできたらめちゃくちゃのめちゃくちゃで終わってくれと筆者を応援するような気持ちで読み終えた。人物の動き方がアウトオブキャラクター(最近覚えて使ってみたかった単語)というか、ちょっと不自然じゃない?って思う部分もあり、描写がもう少しあったらなあと思ったな。

読み終えて、飲酒後の脱水を炭酸水で補い、外でお昼ご飯。その後は先日節穴現象にやられて定休日訪問してしまったおひとりさま専用のカフェへ。入店時だけ混んでいてちょっと並んだ。窓際の良さそうな席に案内されてカフェオレとどら焼きをいただきつつ村上靖彦の「客観性の落とし穴」を読了。続いて、ジャネット・ウィンターソンの「灯台守の話」をさらに読み進める。静かな店内と休日の気だるさにウトウトしてちょっと寝てた。その後ジュンク堂へ。書見台と群像(ルシア・ベルリンの小特集に惹かれて)を購入した。前からある書見台は大型本用に買ったもので、大きくて重くて使用時の大掛かりな感じが不便であったので、文庫や普通の単行本を広げながら引用したりメモしたりする用に小さめのが欲しかったんだ。写真ではフライングタイガーで買ったノートの下になってほぼ見えてない。

さてさて。今夜こそは「灯台守の話」の感想を書こう(意気込むと書けないような予感が既にあるが)。

 

4月18日の日記

朝から身体がずっしりと重かった。体重もすごく重い。あまり変動しない方なんだけどなあ。今日の仕事はまずまずの捗り。予定よりも進めることができたものもあってまあこんなもんで満足しておこう。ちょっと心配したこともうまく収まってくれてホッとした。どうしても定時に入れられなかったことを済ませて多少残業。今日も頑張った。帰りのバスでぼーっとして乗り過ごしそうになった。

今日の読書は村上靖彦の「客観性の落とし穴」。ちくまプリマー新書。2024年新書大賞第3位らしい。半分くらいしか読んでないからまだ評価はできないけど、ちょっとなんというかナイーブな感じがして馴染まない。数的データから出発することは必ずしも数値化できないことの価値を削ぎ落としたり無視することではないと思うので対立を強調しないほうが良いのではないかな。確かにどちらかの方がより重要であるというふうに偏りすぎるのはよくないと思う。そういう主張であれば同意かな。残りも読んでみて、感想を書くかどうか決めよう。今のところ書かない可能性の方が高いかなあ。

お風呂で寝てしまったので、今日も「灯台守の話」の感想は書けず。明日は日記もお休みするかもしれない。飲み会だから。

 

4月17日の日記

昨日あんまりよく眠れなかったから朝はいつにも増して辛かった。今日の予定と目標をぐるぐる考えて。なんかちょっとびっくりするというか変な事件も起こったりして。でも事件が起こるとちょっと無駄に頑張れちゃったりして。ある程度目標をこなして早めの帰宅とあいなったが、とにかく眠い。眠すぎる。「灯台守の話」を読みながらこっくりこっくり何度も瞼が閉じて。今日は読書メーターとかインスタに書き散らした千葉ルーの感想を再利用してブログに書こうと思っていたのに捗々しくなく。エイっと書いたけど、鉄腸さんの一人称についてのかっこいいエピソードについての感想を入れそびれた。しゃーなしや。もう寝たいので、おやすみ。そんなわけで今日は新しい本には手をつけられず、でした。そんな日もある。

 

千葉ルー(読書記録)

済東鉄腸の「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」を読んだ(2023年10月30日読了)。

まず、タイトルがすごいでしょ。そして表紙のイラスト(装画:横山裕一さん)も素敵。岸本佐知子も推薦しているのでこれは読むっきゃない。装丁の色彩の中で佐知子の名前だけが、鮮やかに脳裏のスクリーンに焼きついた。ちょうどこの頃から、私の中で岸本佐知子フェアが始まっていたんだけど、それはまた別の話で、まだ終わっていない話。

結論から言うと、タイトル真実《マジ》。実際に著者が経験した出来事がまんまタイトルになってるエッセイで、熱量が半端ない。鉄腸さんは本当に史上最強のひきこもりだよ。

四年間の暗黒の大学生活の締めくくりとして就活に失敗して引きこもり。汚らしく間延びした時間の中で受動的に観られる映画で心が癒されていき、映画批評を書き始める。そうするうちに日本の映画批評に不満を覚え、むしろネット上の「映画痴れ者」たちにシンパシーを感じ、日本未公開映画の批評を始めていく。その舞台はもちろんはてなブログの〈鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!〉。その中で人生を変える一本のルーマニア映画に出会って…

ここからのスピード感がすごいから是非みんなに読んで欲しい。元々が言語オタクとはいえ、ルーマニア語なんてどうやって習得したのか。その発想力、行動力がマジですごすぎる。いま己にできることに真正面から過激に徹底的に向き合い、奇跡のように美しい出会いや経験が鉄腸さんに降り注ぐさまは感動的で、興奮と歓喜と涙なくしては読めないほどだった。没頭すると瞬きを忘れるドライアイの者なので。佐知子とも相思相愛でうらやましいったらない。こんなふうに本気を見せつけられて、元気をもらえるし、私も真正面から本気を出せるかなって鼓舞されて、がむしゃらに夕陽に向かって走りたくなる(走行距離は50mとする)、そんな気持ちになった。何かをやりたくて、その方法は多分わかっているけど、動き出せない私たちみんなの心にこの本が届きますように!

 

 

4月16日の日記

今日を超えたら今週はこっちのもんだよ。なかなかハードな予感がしたんだけど終わってみたら平和な一日だった。まだまだ手付かずのTODO。やってもやっても湧いて出てくるのがお仕事。みんな、お疲れい。またなんらかのマッサージに行きたいな(体重も戻ったし)。

今日の読書は、「なんらかの事情」を読了し、「灯台守の話」をさっと再読。
灯台守の話」の感想をまとめたいけどまだだめ。読み込めてない。物語自体を解体して順序よく並べたとしてよく理解したことにはならない。意味自体が物語だから。これは物語について、物語ることについての物語。孤児のように寄るべのない魂の。どんなやり方で話せば良いかわからない人生の。“始まりがあって、真ん中があって、おしまいがある“そんな物語ではない。どんな人生にもそんな物語は存在しないのかもしれない。“人生が途切れ目なく繋がった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ“。だから“現在だけが闇の中にある“。引いていく過去と、寄せてくる未来の波間に。闇の中に多くを残したままにして。そして物語は光だ。それは離散した粒子のようでもあり、波のようでもあるからだ。順番どおりに語ることが経路を辿ることとは限らないってこともまた光のようだ。絡まり合って、いくつものはじめが途中から浮かび上がって、終わりから引き返し、遡って。そんなふうに、どんな地点も時点も同時的にある。ここにあって、ここにはなくて。別々の場所の小石を同時に拾えるように。もう一度はじめからやりなおそう。何度でも最初から始まるお話をするために。

なんかポエムみたいになっちまったけど、そんな想念を抱かせるお話。でもこれだと伝達しないから、もう少し噛み砕くために、もう一回ゆっくり読もう(作品自体がすごく素敵だけど難しくて伝達してない可能性もある)。

きっとまだ感想を書けないから、明日は過去の読書メモからなんらかの読書記録をシェアしていきたいと思います。それではまた明日。

4月15日の日記

本日代休。休みに良し悪しはないのだけど、連休だとさらにうれしい。昨日も休みだったんでうれしい。チャーハンが食べたかったのだけど、お昼は鶏肉のフォーとなった。それ自体は問題なく美味しかったんだけど、やっぱりお米とチャーハン欲が満たされないまま午後中チャーハンを引きずって過ごした。

コロナ渦の前からタイに行きたくて、行けそうな感じになってきたねと、パスポートを作りましょう、そうしましょうと思いながら数ヶ月が経過した。やっとやる気を出して証明サービスコーナーに行ってきた。必要書類として戸籍謄本。本籍地とかがわからないと戸籍証明請求書も書けないのでまず住民票をもらう作戦。住民票請求書の1部にチェックを入れたら、役人に「あなた一人ですよね。そういうときは全部になります」と言われた。すまん。前もそういうこと言われた気がする。「何に使いますか」と聞かれ、これを書くためですと戸籍証明請求書を出したら、ここに書いてと端末を読み上げ、名前住所電話番号ほか必要事項を書くようにとテキパキと指示する役人。2回並ぶ覚悟だったので、プロの役人に当たったおかげでショートカットできて助かった。役所関係とお金関係の人と話すとき、いい歳をしてもうしっかりとしたおばさんなんだけど、中学生みたいな気持ちになるの。パスポートの申請書も書かないといけないのでまだまだタイは遠い。

そして目をつけていたおひとりさま専用のカフェが定休日だった。調べて行ったはずなのに。節穴すぎる。仕方がないので先日行ったカフェを再訪。外が暑かったのでアイスカフェラテ。入れすぎてなみなみになっちゃいました!サービスです!と言われて笑う。なみなみだった。岸本佐知子のエッセイ、「なんらかの事情」を読む。「ひみつのしつもん」よりもツボを押された。

なみなみのカフェラテを飲み干してカフェをハシゴ。ジャズをかける有名店。ここは初めてなのかなあ。すごく前に誰かと一緒に来たことがあったような気もする。音が大きい。店内が暗い。良き。

帰宅後、満たされないチャーハン欲を満たしてくれるとパートナーがいう。ありがたいね。ウェイパーいっちょう。