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ライティングの哲学(読書記録)

千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太による「ライティングの哲学」を読んだ。

本書には「書く」ことを一生の仕事にしながらも、「書けない」悩みを抱えた著者らが集い、各々のライティングを哲学し、新たな執筆術を模索する軌跡が記録されている。

構成は、著者らによる書けない悩みについての「座談会その1」、その2年後の執筆術の変化を書き下ろした「執筆実践」、それぞれの原稿を読み合っての「座談会その2」の3部からなる。

アウトライナー座談会」と銘打たれた「座談会その1」は、元々の趣旨としてはアウトライナーと呼ばれるツールを使用した執筆方法を見せ合い、楽に執筆するためのヒントを得ようというものであったようだが、議論は書けないことへの傷の見せ合いに発展。書くことの本質への探究へともつれ込んでいく。

千葉氏がファシリテーター的に発言を促していく形で座談会が進行していくが、初手から

前提として、方法を考えるということは、書くことに関する問題や苦悩があって、そこを突破するために行なっているものだと思います。

と方向性を示し、座談会はまさにこの路線で進んでいくことになる。千葉氏の言葉に呼応するようにそれぞれの執筆の悩み、無限の可能性ゆえの書けなさ、「制約の創造」がキーとなるのではという重要な指摘が続く。

書くこと、もとい「書いてしまうこと」にはある種の「諦め」や「ここまで(にやれ)」という制約が必要だという内容に激しく同意した。書くことやその最終産物の理想が高くなってしまう完成させたくない病を祓っていくスタイルは何かを生み出すときに必須だよなあと思う。そしてそれを駆動する一番の装置が「〆切」だったりするのかもしれない。「時間が王様」みたいな言い方もあるし。
読書猿氏の“わああーっと書いて、手に負えなくなったものは捨てて、自分に書ける範囲のものを残していく“という自分の「無能さ」でフィルタリングするという発想というか手法も面白い。読書猿氏ほどの有能な人に「己の無能さ」などと言われると宇宙の広大さと己のちっぽけさを同時に感じて途方もない気分になるが…
山内朋樹氏の庭の石組みの話はなんかすごいなって思った。庭を作る時、はじめに庭にでかい石なんか置いたらもう取り返しがつかなくて、その取り返しのつかないところから庭が生まれていく。とにかくそうして初めてみて、ここにこの石あるなら次はこうかなって、取り返しのつかなさが自生的に連鎖していくんだと。無限は手に負えない。いかに有限化するか。そうすることで不要な部分や実現不可能な部分が落ちていき、限定的な形が現れてくるのだと。至言です。

2部の「執筆実践」は、編集部からの執筆依頼を受けて「座談会を経てからの書き方の変化」のテーマで4氏の原稿が連なる。実際の〆切と原稿が提出された日時が記載されており、原稿提出順での掲載になっている。最初の〆切に間に合った書き手は読書猿氏のみであり、延期された〆切に間に合ったのが千葉氏と山内氏。締め切りを伸ばしてほしいと請い願い、延期した〆切に間に合わないという有終の美を飾ったのが瀬下氏であった。わかってるな〜。
それぞれのキーワードとして、「断念」「書かないで書く/即興で書く」「中間的テクスト」「執筆しないで原稿を作る」あたりになるか。それぞれがいかに己の神経症傾向をズラしていき、書いていると自分にバレないように書けるかに試行錯誤しているようで面白い。こんな高みの人々でも、やっぱり生身の身であり、書くことって怖いんだなって。
本論とは関係ないけど、読書猿氏に本業があることがこの部で一番衝撃だった。スゴすぎない。どうなってやがる。本業の方が「読書猿」名義よりも知名度が高かったりして。

ラスト3部の「座談会その2」は「執筆実践」で見出されたキーポイントを振り返るような形式。やっぱ〆切ってすごい効果あるよね、という話に花が咲く。〆切は伸びたりもするんだけど、どこかで線を引かれる、そこを目指して走るのだ、みたいな感覚こそ大事なんだろうなあ。「書き出し問題」も。千葉氏からはなんとなく日記みたいに書き出しちゃって、邪魔なら後でカットしちゃえという石組みアレンジ方式が提出される。

こうやってまとめてみても、はじめから終わりまで割とおんなじようなことしか書いていなかったりするけど、結論というものは一周回って出すものであって、ちゃんと一周回ることが論じるために、納得のために、伝わるために必要なことなんじゃないかと思う。大体良い結論って身も蓋もないから。

千葉 身も蓋もない話ですけど「書いていれば書けるようになる」ということはありますよね。量を書かざるを得ないから諦めざるを得ない、諦めるから量を書くことができるという相補的な過程があったと思います。

身も蓋もないっ。
それから、やっぱりなんらかの解決努力そのものが邪魔しているってことが往々にしてあって、そこは機能分析していくと良いだろうと思う。みんなの機能分析だよ。より良く書くために、ちゃんとやろうと意識すればするほど、それは書ける状態から遠ざかっていくのだとして、そこであえて書くために書かない、パラドキシカルな解決が立ち上がってくるのだろう。自分なりの、解決努力と、逆説的解決を探していくことです。