読書とカフェの日々

読書感想文と日記

読書記録:オクテイヴィア・E・バトラー「キンドレッド」

オクティヴィア・E・バトラーの「キンドレッド」を読んだ。

 

【あらすじ】
主人公の黒人女性デイナは26歳の誕生日に19世紀初頭の南部アメリカにタイムスリップし、白人少年ルーファスの命を救う。以降、ルーファスが危機に陥る度にデイナは彼の時代にタイムスリップし、どうにかこうにか彼を救う羽目になるが、元の時代に戻れるのはデイナ自身が死の淵の恐怖に立たされたときなのだった。そのような行き来の中で、ルーファスがデイナの高祖父であることがわかり…

現代(1976年)を生きる黒人女性がもしも奴隷制の歴史のただなかに放り込まれたらーこの時代を黒人女性として生きるとはどのような経験なのか。

作中でデイナの夫―白人男性のケヴィン―もデイナのタイムスリップに巻き込まれて奴隷制時代を経験するが、彼らが見たもの、見ようとしたものは異なっている。過去と現在を行き来する際のめまいと混乱の中で、デイナはルーファスとケヴィンを幾度か重ね合わせる。

解説では「この物語は時間旅行SFである」とされていたが、バトラー自身は本作をSFとは認めず、「ファンタジー」と呼んでいる(訳者あとがきより)。たしかにタイムスリップに関するサイエンティフィックな説明はなにも付されておらず、私もこれはSFではないと思った。

物語が主人公と読者を連れてゆくのは奴隷制下の南部アメリカのプランテーションだ。ヒトがヒトの生殺与奪の権を持ち、所有されて売り飛ばされ、”次世代を生産”させられる吐き気を催すほどのディストピアだ。
バトラーが本作の着想を得たのは、同じ黒人学生団体に所属していた男子学生が、抵抗せず奴隷の身に甘んじた先祖を非難したのを見て、「この男はそれ(奴隷制)を体内に感じていない」「この男を奴隷制の南部へ送り込んで、どれほど耐えられるか見てやりたい」という願望を持った経験からだという(訳者あとがきと解説より)。
本作を読めば、デイナとともに読者はそれを少なからず体内で感じることになる。この時代では尊厳を守ることは危険で文字通り命がけの行為だ。こみ上げる嫌悪と肉体の痛みへの恐怖との狭間を誰も無傷で通り過ぎることはできない。

 

愛憎の魔物を喰らえ!読書記録:金原ひとみ「マザーズ」

金原ひとみの「マザーズ」を読んだ。

文庫にして600ページ超の長編。かなり読んだと思ったのに20%も進んでいないと知った時、この小説は「すげー長い」と思った。40%くらいの時点では「なんかずっと同じこと書いてる」と思った。50%まで進むと引き返せなくなった。最後まで引き込まれてこの長さには意味があると思った。三人の母親たちの地獄に親しんでいくには必要な時間がある。

2歳の女の子の母のユカは夫と別居している。シッターや家事代行を利用しながら小説家としての仕事をこなしているが次第にバランスを失っていく。
ユカの高校の同級生の涼子は9ヶ月の男の子の母親で専業主婦だ。密室での育児に限界を感じ、認可外の保育園に預けることを決めたが、その保育園でユカと再会する。
3歳の女の子の母でモデルの五月は夫との不和に悩み、不倫相手の子を妊娠する。

母になること。自分の胎内で育て、自分が産んだ生き物が自分の思い通りにはならず、予測のできないものにハンドルを握られているということ。自分自身の都合や好みで決められる要素が限りなく減っていくということ。我が子との強い絆を感じずにはいられないのに、その絆は逃れられない監獄の鎖でもあるということ。母親としてではない自分をどう生きていいかわからなくなること。時代は母親以外のアイデンティティを失うべきではない、手放すべきではないと叫ぶけれど、母親以前の自分自身を思い出すこともできないこと。何かを望んだり手を伸ばすことすらできない自分のことをどう思っていいかわからないこと。理想の自分、理想の母親像との差分をジャッジしようとする自分の眼差しからは逃げられないジレンマ。

暴力的な本音にページをスクロールするごとに息が詰まって、胸いっぱいに煤に塗れた嫌悪が滲み、むかつきとともに興奮が高まっていく。愛することもののおぞましさ。愛憎という魔物との壮絶な生存闘争を喰らえっ!!

 

大人ってなに?そう思って生きてきたの。読書記録:燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」


燃え殻の「ボクたちはみんな大人になれなかった」を読書会のために読んだ。

読書会の課題図書っていうのは自分だったらまず手に取ることがないようなもので、少なくとも次に読もうと思うようなものではなくて、人々の好みの多様さや世の中に存在する本の夥しいこと。読んでみて合うものも合わないものもあるけど、そこそこの受賞作、話題作、古典と呼んでも良いような作品はほぼ読んでよかったと思うようなものばかりで、自分のパターンから抜け出して、バグらせてくれるのでとても良い。ときどきエラーが起こると、進化していけるっていう感じがする。

「燃え殻」ってペンネームは悲観的というか暗いというか感傷的で、真っ白になったジョーとはまた違った趣があって、なんか嫌なこと言いそうなイメージがあったので読むのがちょっと怖いような感じがしていた。麻布競馬場系統の。誰もが持っているむしろ健康的な自己愛とか、自覚ないわけじゃないけどあえてまじまじとみたくないような自分の狡さなどに顔面をぐいと向けられてなおかつ厳しいこと言われそうなイメージというか。でもちょっと読んでみたいような、やっぱり怖いような。
結局は読んでみたらそれほど感傷的でもなく、湿度が高すぎるわけでもなく、読み手を居心地悪くさせるような内容では全然なくて。自分自身すでに若いと思えなくなった大人たちの誰もがきっと共感できるようなあの頃のノスタルジーとか切なさが時々顔を見せてどきっとしたり苦しくなったりしながら、でもちゃんと今の自分で歩いていかなきゃな、歩いていけるなっていう気持ちを受け取り、むしろ爽やかに読了できた。

作品は短い断章からなる構成で、記憶の断片が順不同で想起されては現在の中に溶かされていく。そこにあるのは親愛なるブスである彼女との思い出だけじゃない。あの頃の時代や若さゆえの無謀さ、夢や希望も振り切る速度で必死で生きてきたこと、今はもう会えなくなってしまった人の記憶。個人的に一番印象的な章は「ギリギリの国で捕まえて」。テレビ番組のテロップを作る制作会社に勤めている主人公が、雪の降るクリスマスの夜にバイクで制作物の配達に出て、アイスバーンで滑ってバイクごと転倒し、左足と左手に大怪我を負う。左手の爪は親指以外途中から千切れてしまっていて、濡れたらダメになってしまうテロップを一人で拾い集めていく。街行くたくさんの人には主人公のことが見えていないようで、社会のうちに数えられていないんだなって考えた時、会社のあるビルで見たことがあるヤクザの男が助けてくれる。ギリギリの国で生きるもの同士にしかわからない痛みと暖かさがあった。痛いシーンは心に残る。内面に映し出された痛みが接着剤になってるみたいだと思った。

 

言いたいことはひとつ。「ありがとう」なんだよ。
あなたのおかげであの日々を超えてきたんだよ。あなたがいなくなってからも、あの時あなたがいたから、ここまでやってこれたんだ。万感。

 

悪口って好き?嫌い?

 

【過去の読書記録】
悪口ってなんだろう/和泉 悠

 

とても易しく簡潔な文章で、読みやすかった。

パート1 悪口はどうして悪いのか
パート2 どこからどこまでが悪口なのか
パート3 悪口はどうして面白いのか
上記の3つのパートがあり、私は特にパート1とパート2について興味を持って読んだ(その部分のメモが多かった)。
悪口は“誰かと比較して人を劣った存在だと言うこと”と定義され、悪口をとても悪くするのは“人のランクを下げるから“という考えが述べられている。
“自分が上で、標的が下“というメッセージが悪口の基本の形だから、その言葉が人を傷つけるからと言って、悪口になるとは限らない。それが単に口が悪いことや軽口、自虐、まっとうな非難と悪口を区別する上で重要なポイントになってくる。
軽口は、お互いのランクの同等さが揺るがないという(相互の)確信や関係性がなくてはならない。
自虐は、自分を自分より下げる行為(それは無理)だから、他の人から言われるのとは違う。
まっとうな非難には前向きな側面ーコミュニティの中で同じ立場の存在として歓迎されるための指摘であるという態度の表明ーがあるかどうかが重要。
悪口はすべて悪いかというとそうでもなく、積極的に利用されている社会の紹介や、悪口の使いどころについても触れられているところも良いと思った。

“シーライオニング”という概念を初めて知った。これは、わざと嫌がらせのためにむちゃな質問を繰り返すしぐさのことで、普段ではありえない水準の証拠を要求したりするなどの嫌がらせが含まれるんだそう。相手が質問に答えてくれないことで、被害者ぶりができてしまう。もちろん議論には一定の根拠や足掛かりとなる事実が必要ではあるが、議論をきちんと受け止めない姿勢の一つとしてこういった形態があるんだってことを学んだ。

 

非常に面白く読んだので、同じ著者の「悪い言語哲学入門」も読みたい。

セクス連呼厨大江の物語

タイトルはAIでつけてみた。ひどいな。
2024年になってた。びっくり。新年度になるので気持ち新たに。

 

今日の読書記録
「死者の奢り・飼育」大江健三郎
初めまして大江。大江は性器のことをセクスと云うのだ。セクス連呼厨大江。

 

表題作「死者の奢り」
医学部の解剖用死体を古い水槽から新しい水槽に移動する謎バイトの顛末を拗らせ気味の文学部生の視線から描いた作品。主人公は「死体って《物》だな」と思う。物って独立した感じがあるよな。そうとも俺たちは《物》なんだな。死は《物》だな。死体という物質的なものの具体性、死の安定した感じへの感動と、生きてることとその周辺の困難さ不安定さ柔らかさ煩わしさ戸惑いが対比されている。そしてこの謎バイトは主人公にとって非常に理不尽な感じに終わり、徒労感。

 

「人間の羊」
主人公は夜更けのバスの中でなんの理由もなしに外国人兵士たちに半ば脅されて下半身を裸にされて裸の尻をひたひたと叩いて遊ばれるという屈辱を受ける。外国人兵士たちは「羊撃ち、羊撃ち、パン パン」と歌いながら主人公の尻を打つ。バスの他の乗客も幾人か「人間の羊」にされ、裸の尻を叩かれる。歌い疲れて外国人兵士たちがバスから去った後で、羊を免れた乗客の中にいた正義漢教員野郎が被害者たちに向かって、声を上げないといけないとか言い出して本当にうざい。こういう奴が一番ダメで、本当に疲れを倍加させる。まじムカつく。なんなら加害者より害悪。主人公は教員に目をつけられてしまい、バスを降りた後もストーキングされて警察署まで無理やり連れて行かれ、被害届を強いられたり、それを拒んでもう帰ろうとしているのにずっとストーキングしてきてしまいにはお前の名前を突き止めてお前の受けた屈辱を明るみに出して死ぬほど恥をかかせてやるとか脅してくるので主人公が本当に可哀想なんですよ。疲労と絶望が広がります。ぜひ読んで。