読書とカフェの日々

読書感想文と日記

4月11日の日記なのか

眠かったなあ、今朝。
今日の読書は森田真生の「数学する身体」できれば読み終えたいなあと思っていたけど、無理そう。内容はすごくエキサイティング。

第1章では思考することと行為することの分かち難さ、身体機能の拡張としての道具の使用についてなど。環境に包まれつつ環境に影響を与え利用する「環世界」的発想が提示されている。この辺りのテーマは別に数学でなくても良いのかもしれないけど、数学が身体に根差したものだという本書の視点は興味深い。

第2章の主役はヒルベルトからのアラン・チューリングへ。「数学」の計算部分を機械に託すときに何が起こるか。認知科学人工知能の発展のものすごく先端を独走したチューリングの先見性たるや。チューリングの独自性や純粋性は数学にとどまらず社会とは激しく摩擦した。奇人変人的な逸話を持つ数学者は多いが、チューリングも御多分に漏れない。とにかく極端な人だったんだなぁ。

第3章の数学スターは岡潔。著者の数学探究の原風景をたどっていく。
岡潔は数学の喜びを、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと描写した。詩的。
無心で没頭するとき、そこに私とか客体などはなくなって一体となる感覚。純粋経験や直接経験と表現されるような状態だろうか。今ふうにいうと、「マインドフルに」。数学と一体すること、数学の流れそのものになること。「数学」と「身体」とが交わる場所を、この目で確かめたい。そのように著者は数学を学び始めたのだ。素敵。
生体が環境をいかに体験するかについて、歴史的名著、ユクスキュルの「生物から見た世界」を引き、その中の「魔術的環世界」こそが人が経験する「風景」であるとする。人が生きるのは客観的な環境世界についての刺激入力のみにあらず。いわゆる「認知」とでもいうのか「主体にしかアクセスできない」要素が混入している「風景」。数学もまた固有の風景を編み、その中で数学者が数学することで新たな風景を生み出し、風景に誘われてその風景の中で旅人になる。なんてロマンティックなんだ!
第3章の後半は数量の感覚と位置関係の感覚の分かち難さ(同じ脳領域が活性)、脳だけ見ても脳のことはわからないこと、模倣と共感、皮膚が生体の境界のみならず意識の境界をも隔てている可能性などを俯瞰していく。
ユクスキュル、ミラーニューロンやラマチャンドランの研究まで登場して、この著者と私の読書傾向というか興味分野が似てる気がしてきた。

いずれも名著。

ついでに読みながら連想した本↓

面白かった。今日は第3章までとして明日読み切れるといいな。

連日に、私の生活に出来事というほどのことは起こらず、徒然なるままに心にうつりゆくよしなごとを書くと自然、読書の感想になってしまって、でもそれは読書記録で書くべきことで、でもいざ読書記録書くぞーとなるとなんとなくかしこまっちゃうというか書き出せなかったりするので、こんなふうにだらだら書いてみたほうが書けるというのは発見だ。だからおんなじことを読書記録の方でも書くと思うけど、一番フレッシュな形で、ここにも残しておこうと思い。