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82年生まれ、キム・ジヨン(読書記録)

チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ(2024年2月19日読了)。

 

これを読んだきっかけは、頭木弘樹編のアンソロジー「うんこ文学」に収録されている、ヤン・クイジャ著、斎藤真理子氏の新訳による「半地下生活者」を読んだことだった。
「半地下生活者」は「ウォンミドンの人々」という連作短編集の一編で、社会格差の中での個人の生活や心持ちについて丁寧に描かれていたる作品だ。主人公はトイレのない半地下の部屋に住み、上階に住む部屋のオーナーからトイレを貸してもらえない。同じ地区にある職場(自動車のマット工場)も半地下にあり、半地下to半地下の生活の貧しさが切ない。トイレ問題と貧しさ以外には目を引くところのないような静かな日常を描きながらも、読んでいて退屈さは感じさせず、短編集を全編読んでみたくなった。

韓国文学はここ数年すごく気になりつつも、言ってしまえばマイナー言語であり、翻訳はどうなのかしらという不安から積極的になれずにいた(話題作の中から過去に読んでみたひとつがあまり良いと思えなかったことも要因としてあった)。「半地下生活者」の訳がとてもよかったので、再チャレンジは「82年生まれ、キム・ジヨン」からと思って本作を読んでみたのでした。

2015年にキム・ジヨン氏に起きた異常から物語は始まる。その年の秋、キム・ジヨン氏は母や大学の先輩など、身近な女性の言葉を語り始める。夫に連れられて精神科を受診したキム・ジヨン氏は精神科医である「私」の提案でカウンセリングを受ける。カウンセリングで語られたキム・ジヨン氏の半生がこの小説の主要な部分となっている。キム・ジヨン氏の語りを通して、自分には考えの及ばなかった世界が存在することに「私」は気づくが…

 

大胆な構成と強烈なメッセージ。一気読みしながら何度もぶっ叩かれているような衝撃を受けた。私には見えていなかった不公正があったし、見えているのに存在しないかのように振る舞ってもいた。大したことじゃない、騒ぎ立てることではないと、矮小化したり、なかったことにするのは間違った姿勢なんじゃないかって初めて思った。
本作が「フェミニズム文学」と呼ばれていることも知らずに手に取れたことは本当にラッキーだった。こんなふうに自分の中にあるフェミニズムについての偏見に邪魔されずに読むことができたから。

 

この小説はあるひとりの女性による告白であると同時に、すべての女性の声にならなかった言葉だ。物語の中で開かれ、物語の外にも開かれる言葉はしかし、心を打つだけではなにも変えることができないという現実の象徴として物語の中で閉じられる。
キム・ジヨン氏や周囲の女性たちの経験を通して女性の生きづらがはっきりと描き出される。出席番号が男子からつけられるというような、一見なんでもないような日常のこと。何時代なんだろうと思うような理不尽さ。差別や迫害から守ってくれたり助けてくれる親切な人もいる。対等に向き合えるパートナーや同僚もいる。だけど歴史と人の信念に根を張った構造を変えていくことの困難さ。この人生で社会構造を乗り越えようとするときには何かを諦めなくてはならなかったり、後に続く女性の権利を奪ってしまうかもしれないというジレンマ。同じ苦しみを持つ人に恨まれてしまうかもしれない孤独。ジヨン氏の母が男の兄弟の学費を稼ぐために働いた過去や、家族や子どもたちを養うために商才を発揮していくかっこいい姿、娘たちの職業選択など将来を思う姿に心打たれながらも(本当に母がかっこいい、母親ってすごいと思って感動したんだけど)、賞賛することのむごさということを初めて考えた。献身したくてしてないんだよ、それはもちろん非常に困難なことで、並外れた努力をしてきたんだけれど、犠牲を払わずに生きられた方がよかったに決まっているから。賞賛されると本当は嫌だったなんて言いにくくなるから。差別や社会構造の問題を美徳とすり替えてはいけないんだ。

 

それでも心に残ったのはやっぱりキム・ジヨン氏と母のシーンだった。
キム・ジヨン氏が就職活動で内定をもらえないで落ち込んでいるときに、父が発した無神経な言葉「おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」に激怒する母のセリフがたまらないほど好きだ。
「いったい今が何時代だと思って、そんな腐り切ったことを言ってんの? ジヨンはおとなしく、するな! 元気出せ! 騒げ! 出歩け! わかった?」
私はおとなしくしない。