読書とカフェの日々

読書感想文と日記

4月12日の日記

嫌な夢だった。割と現実に根差した絶妙に嫌な夢を見ることがある。それか、明らかに過去に嫌だった経験が反映されている夢を見たりとか。大体が迷う、わからない、決まらない、それによって何かが間に合わない。それか綺麗なトイレが見つからない。

今日の読書は昨日に引き続いて、「数学する身体」を読了。

第4章は再び岡潔。フランス留学で味わった充足と欠乏。芭蕉の句から(情+緒)とでもいうものを感じ取り、自他を超えて通い合う「情」と肉体に宿る「情緒」とを行き来することに「わかる」を見出した。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。

終章ではこれまで歩んできた論考を鳥の目で眺める。アラン・チューリング岡潔。数学を通した心の究明の二つのアプローチがあった。人間の心が玉ねぎだとして、チューリングは玉ねぎの皮を剥いでいくアプローチをとる。全て剥ぎ取って、全て皮だったら、心とはただの機械なのか。パズルが解けないことの証明は困難だ。解いてみるまではわからない。岡潔は玉ねぎが玉ねぎとなる種子の力、それを包み込む土壌にこそ目を向けた。皮をどこまで剥いても、玉ねぎを理解することにはならないだろう。玉ねぎの種子の力もまた、玉ねぎそのものではないだろう。どちらのアプローチも不可欠であるが十分ではないのかもしれない。そうと分かりながらも、旅をする風景を楽しむことはできるはずだ。

 

本書より引用(岡潔が晩年、講義中にした発言を要約した部分)

小川のせせらぎを構成する水滴の描く流線や速度は、いずれも重力その他の自然法則によって決定されている。しかし、その水滴の運動を人間が計算しようと思えば、厄介な非線形偏微分方程式を解く必要がある。ある程度の近似を許したとしても、現実的な時間内でそれを正確に解くことは難しい。にもかかわらず、小川の水は流れている。これはいかにも不思議である。

なんかわかるなぁ、この感覚。脳について考える時の脳みたいな感覚。「考えること」自体が組み込まれていく。その畏怖、不可思議。

 

本書の著者 森田真生 編の岡潔の著作からの選集「数学する人生」、「計算する生命」も読みたい。

 

そしてジャネット・ウィンターソンの「灯台守の話」を読み始める。昨年から岸本佐知子さんの翻訳作品と岸本佐知子本体にハマっている。ジャネット・ウィンターソンめっっちゃ好き。冒頭からいきなり面白いのだが。読み進めるのが楽しみだ。

 

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