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数学する身体(読書記録)

森田真生の「数学する身体」を読んだ。

本書は森田真生の初の著書。本書で森田真生は最年少で小林秀雄賞を受賞。

本書のテーマは数学の身体性だ。数学は端から身体を超えていこうとする行為でありながら、それはただ単に身体と対立するのではなく、身体の能力を補完し、延長する営みでもある。本書で著者は、数学にとって身体とは何かを問い直し、数学に再び身体の息吹を取り戻そうと試みている。

第1章では思考することと行為することの分かち難さ、身体機能・認知機能の拡張としての数字・道具の使用と、その行為が次第に思考に組み込まれて再帰する過程が描写されている。紹介されている人工進化の研究が非常にエキサイティングだ。物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりとした境界はなく、ヒトもまたその例外でない。環境に包まれつつ環境に影響を与え利用する「環世界」的な発想が提示されている。

第2章の主役は「数学を数学する」ことを目論んだヒルベルトの潮流からアラン・チューリングへ。「数学」の計算部分を機械に託すときに何が起こるか。認知科学人工知能の発展のものすごく先端を独走したチューリングの先見性たるや。

第3章は岡潔とともに著者の数学探究の原風景をたどる。
岡潔は数学の喜びを、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと描写した。詩的。
無心で没頭するとき、そこに私とか客体などはなくなって一体となる感覚。数学と一体すること、数学の流れそのものになること。「数学」と「身体」とが交わる場所を、この目で確かめたい。そのように著者は数学を学び始めたのだ。素敵。
生体が環境をいかに体験するかについて、ユクスキュルの「生物から見た世界」を引き、人が生きるのは客観的な環境世界についての刺激入力のみではなく、「主体にしかアクセスできない」要素が混入する「風景」であるとする

ユクスキュル/クリサート著「生物から見た世界」

数学もまた固有の風景を編み、その中で数学者が数学することで新たな風景を生み出し、風景に誘われてその風景の中で旅人になる。なんてロマンティックなんだ!

第4章も岡潔芭蕉の句から情緒を感じ、自他を超えて通い合う「情」と肉体に宿る「情緒」とを行き来することに「わかる」を見出した。「自分の」という限定を外していくこと。同化、無我、無心がまずあって、ふと私=有心に還ること。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。

終章ではこれまで歩んできた論考を鳥の目で眺める。アラン・チューリング岡潔。数学を通した心の究明の二つのアプローチがあった。人間の心が玉ねぎだとして、チューリングは玉ねぎの皮を剥いでいくアプローチをとる。剥ぎ取って、全て皮だったら、心とはパーツに還元されうるただの機械なのか。パズルが解けないことの証明は困難だ。解いてみるまではわからない。岡潔は玉ねぎが玉ねぎとなる種子の力、それを包み込む土壌にこそ目を向けた。皮をどこまで剥いても、玉ねぎを理解することにはならないだろう。玉ねぎの種子の力もまた、玉ねぎそのものではないだろう。どちらのアプローチも不可欠であるが十分ではないのかもしれない。そうと分かりながらも、旅をする風景を楽しむことはできるはずだ。

詩情豊かで端正な文章の中に、科学的な発想の面白さと驚きが輝く。身体で感じ・考える。そして身体を超えて漏れ出す。身体の延長が思考となって再帰する。そんなふうに何かを感じられたら、全ての問いは自己理解につながっていくのかもしれないと思った。

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