読書とカフェの日々

読書感想文と日記

9月1日:

昼過ぎに家を出て遅めの昼ごはんの後、ジュンク堂のカフェにおさまって読書。『私の身体を生きる』を半分くらい読んで、店内を巡回。なんとなく河出文庫『ハイファに戻って/太陽の男たち』が在庫あったら買おうかなと思い立ち、あったのでゲット。一冊買うと、そういえばアレもコレもとなってしまい、ポール・オースターの『幽霊たち』安部公房の『飢餓同盟』『水中都市・デンドロカカリヤ』『R62号の発明・鉛の卵』を購入。新潮社は一刻も早く(あ 4 20)の『カーブの向こう・ユープケッチャ』を復刊させること。お願いします。今年出なきゃ出ないかなあ。それで、まあ仕方ない。買ってしまったものは。なんとか頑張って読んでいこう。修行だ。帰宅後、古本も一冊届く。仕事関係だからこれは省略。ノンアルコールビールを飲みながら、『私の身体を生きる』を読了

私の身体はどんな視線にさらされ、どのように規定され、内面化されているのか。
17人が自らの「身体」と向き合い、ときに激しく、ときにユーモラスに、かつてない真摯さで言葉をつむぐ。
衝撃と共感が広がる、「身体」をめぐるリレー・エッセイ (帯文を引用)

いや本当に、このテーマだからなのか、そうでもないのかわからないけど、真正面から切実に書かれたエッセイ揃いでいろいろな驚きと発見があった。自分が抱いていたけど気が付かなかった感覚を見つけて共感できること自体が驚きというか。もちろん、全く同じものはひとつだってないだろうと思うけど。わからないことも、わかる気がすることも、窓が開いて新しい風が吹き込んでくるような読書体験をした。個人の好みとしては、村田沙耶香がぴかいちで、西加奈子金原ひとみも彼女ららしい危ないくらいの直球で、能町みね子に出会って首肯しまくり、鳥飼茜の「本体と車体の捩れ(自己を客体視する視点の捩れと換言できるかもしれない)」に自分と同じものを見つけてびっくりした。なかなかその辺の人に「これ読んで!」とか「これってなんかわかる」とか言いにくい本ではあるけど、これらのことを衒いなく真剣に話し合えるような関係も持ってみたいと思った。本当に良著であると思う。しばらく手近に転がしておいて後何周か味わいたい。

そしてチャールズ・ブコウスキーの『勝手に生きろ!』も読了。なんでこいつは魅力的なのか(私にはわからない)という視点で残りを読んだ。ブコウスキー自身も著書がヨーロッパで売れてからはそれはそれはモテてたようだ。著名人は著名人であるというだけでモテるのは当たり前だからそれはどうでもいいのだけど。私は文庫のちょうど真ん中あたりにある一節に目をつけましたね。以下に引用。

「あんた、まるごとそこにいるのね」「どういう意味?」「だからさ、あんたみたいな人、会ったことないわよ」「そう?」「他の人は10パーセントか20パーセントしかいないの。あんたはまるごと、全部のあんたがそこにいるの。大きな違いよ」「そうなのかなあ、わかんないよ」「あんた女殺しよ、いくらでもものにできるわ」こうまで言われるといい気分だった。

確かにまるごとそこにいられると魅力的かもしれない。一種のノーガード戦法、自然体あるがまま。だけどどうやって? そこがわかんないよね。ブコウスキー作品をまた読むかは保留。書簡集の『書こうとするな、ただ書け』は気になる。町田康も一種の自己検閲振り切り系っていう感じでそこが魅力だけど小説の主人公はすごくダメな感じだし、作家と書かれている物の関係もちょっと似ているのかもしれない。

そして計画通り、次は町田康の『しらふで生きる 大酒飲みの決断』を読む。ちょっと前に少し読んで放置していたけど、ブコウスキーからの流れが良い(酔いどれ文学からの断酒でバランスが良い)ので読んでいく。禁酒、節酒、なんどもつまづいては懲りずに繰り返している。

明日は月曜日だ。嫌だねー。