読書とカフェの日々

読書感想文と日記

6月25日:色付けないことの強さ

昨夜も撃沈。規則正しいステップを刻む眠気よ。眠いものはどうしようもないので、今しばらくは二日に一度のペースに甘んじよう。そして二つ前の投稿で100記事を達成していた。5月が結構頑張っていた感じで6月はやや失速したけど、トップページに載る事件があったり浮き沈みが激しい1ヶ月だった(まだ終わってないけどね)。仕事の方では、6月からの新規業務諸々もまあなんとかなりそうな感じで自信をつけた。他では挫けそうにもなっていたので、こちらもやっぱり浮き沈みの月。

昨日から2周目に突入した岸政彦の『断片的なものの社会学はもう読み終わってしまった。2周目ってダレたりするからゆっくりペースになるかと思ったんだけど、普通に2周目でも面白くて隙間を見つけては読んでいたらあっという間に読み切った。

2周目なので意図的に「断片的なもの」ってなんだろうって、著者はどんなものごとを「断片的」といっているんだろうと思いながら読んだ。「断片的なもの」とは、「自分自身の解釈から外れるような語りやエピソード」とか「分析できないもの、解釈や理解をすり抜けてただそこにあるもの、日晒しになって忘れ去られているもの」とか、単に「無意味なもの」あるいは「唐突で理解できない出来事やことがら」というふうに言い換えられていて、それは著者が「社会学」を行うときにすること(語りを分析したり、理論的な枠組みの中で解釈しようとすること)と対照的なことなんじゃないかと思った。「この」語りを分析・解釈するということでこぼれ落ちるものがあるかもしれない。そんな不安がなかったか。「ダシ」をとるみたいに、意味のあるところと搾りかすに分けるようなことをしているんじゃないか、そんな葛藤があるのかもしれない。だからこそ、どうしようもできないくらいの断片を大事に集めてみたくなったり、その語りや出来事そのものを、自分自身の枠組みに入れずに、単にそこにあるままをじっと見ることがしてみたくなったりするのかもしれない。だからこの本は色々な断片的なものがとても大切に、集められたようなエッセイ集のように感じた。とても大切に集めて、断片的なものから萌芽する気持ちや反省やノスタルジィは無でもなければ無意味でもないものだ。答えはわからない、意味があるのか、正解があるのかもわからないものでも、それを感じ取って思考のほつれた糸の端っこを少しひっぱって見ることはできる。このエッセイを読んで、個人的に共鳴したように感じたものは、そのへんの小石をひとつ拾って見つめることで、そのへんの小石が「このこれ」になる不可思議。その無意味さと厖大さのなんともいえない感じ。無意味なものや厖大なものをただ見つめるときには、不思議な解放感や自由のような感覚を私は感じる。「自分の」というこだわりが小さくなっていくような。そんな感覚が糸口になって、縫い目が解けていくように読んでいた。

「笑いと自由」という章もすごく良かった。

なにかに傷ついたとき、なにかに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。ときには手が出てしまうこともある。
しかし、笑うこともできる。(略)

ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。

「手のひらのスイッチ」という章で、「良いもの」や「みんなにとっての幸せ」のイメージがそれを手にしていない誰かを傷つけてしまうことについての考察にもとても共感。「良いもの」を喜ぶ気持ちを手放すなんて、できる? どうしていいのかほんとうに私もわからない。

「普通であることへの意志」という章では、マイノリティとマジョリティの徹底的な違いについての考察が印象に残った。

多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/差し示されないようになっている」ということである。(略)

一方には色がついている。これに対し、他方に異なる色がついているのではない。こちらにはそもそも「色というものがない」のだ。(略)

一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人々がいるのである。

そのことについて何も考えなくてもよい人びとが、普通の人、マジョリティ。トランス女性と知り合ったときに、このようなことを感じたことがあった。こんなふうに上手く言葉にはならなかったけど。私は「女性らしさ」ということを意識しなくても女性であるということ。そしてその「女性らしさ」に「囚われなくてもよい」と思えるほどに女性であること。そしてそのことだけがどうしても手に入らないような経験があるということ。想像もできないようなことだ。今でもできないし、できるとも言いたくない。

「時計を捨て、犬と約束する」という章はとびきり切ない。解釈を手放すこと、無意味のままにしておくこと。そのものだけを受け取りたいという切実な祈りのようなものを感じた。ここでいう無意味さは、意味づけが「できない」のではなくて、むしろ「したくない」という意志と繋がっている。それは強くてとても崇高なものだと思う。色づけない姿勢。わからないという姿勢。そこにとどまることで、少しでもただそれだけを知ることができるのではないかというチャレンジだ。

日記のつもりで軽い気持ちで書き出したら2千字を超えてしまった。これこそ断片的で読みにくいものになったかもしれない。後日読書記録として書き直すかも。