読書とカフェの日々

読書感想文と日記

4月14日の日記

日曜日。ゆっくり起床して昨日の文章を少し手直し。
なんだか知らないけど、お片付けモードが行きすぎて模様替えのようなことを始めるけど納得が全然いかず。棚を押したり引いたり、机の向きを変えたり戻したりした。どうしたらいいのだ。わからない。積読をどう積むか、読みかけの本をどう積むか、どこの棚に何を並べるか。好きな本はなるべく見えるように置きたい。サイズを揃えて収納したい。テーマごとにまとめたい。いったい私はどうしたらいいのか。素敵な感じの新しい本棚を買えばいいのだろうか。タワー型の積める本棚がずっと欲しくて、買っちまおうかとか。なんか回転式の本棚もあるけど、これは部屋に置くとでかいやつだ。木箱みたいなのを好きなように積んで本棚とするのもいいなとか思ったり。棚を押したり本を出したりしまったりしながら途方に暮れた結果、はじめより散らかって腰が痛くなっただけで、こんなことでは休日なのに出かけることができなくなると思い、もう全部放り出してソフトクリームを食べに行った。暖かいお天気もあって混んでいたのでお店の近くの公園で食べた。

移動してベーグル屋でコーヒーを飲んで、読書の続き。本当になんでもないようなところが何かの琴線に触れて地下鉄でうっかり泣きそうになった。帰宅して晩御飯は一昨日の残り。もうひと頑張り。こないだ行ったバーを再訪して「灯台守の話」を読了。面白かった。そして難しかった。この魅力はなんだろう。何が私に触れたのか。

4月13日の日記

今朝もいつも通り強烈に眠かった。仕事の日。いっときに比べたら忙しさもそれほどでもないがまあまあやることたくさん。空気清浄機の作動音が耳鳴りと同期して耳が聞こえなくなったり眩暈がしたりして疲労を感じた。終業時には這々の体。訳あって(?)東畑開人さんの連載などを読む。居るつら以降読んでなかった。オシャレでスカしてる感じが苦手だったんだけど「あまり他人が書かないことを書くので面白い」との同僚の評を聞き、あっさり改宗。他の著書もぜひ読みたいです。

アフターはちょいと遊びに出たかったけど大人しく串鳥で空腹を満たして帰宅。いろいろ頑張って読書記録をまとめた(えらい)。日記もしるしたし、「灯台守の話」を読みながら寝よう。

読書記録:森田真生「数学する身体」

森田真生の「数学する身体」を読んだ。

本書は森田真生の初の著書。本書で森田真生は最年少で小林秀雄賞を受賞。

本書のテーマは数学の身体性だ。数学は端から身体を超えていこうとする行為でありながら、それはただ単に身体と対立するのではなく、身体の能力を補完し、延長する営みでもある。本書で著者は、数学にとって身体とは何かを問い直し、数学に再び身体の息吹を取り戻そうと試みている。

第1章では思考することと行為することの分かち難さ、身体機能・認知機能の拡張としての数字・道具の使用と、その行為が次第に思考に組み込まれて再帰する過程が描写されている。紹介されている人工進化の研究が非常にエキサイティングだ。物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりとした境界はなく、ヒトもまたその例外でない。環境に包まれつつ環境に影響を与え利用する「環世界」的な発想が提示されている。

第2章の主役は「数学を数学する」ことを目論んだヒルベルトの潮流からアラン・チューリングへ。「数学」の計算部分を機械に託すときに何が起こるか。認知科学人工知能の発展のものすごく先端を独走したチューリングの先見性たるや。

第3章は岡潔とともに著者の数学探究の原風景をたどる。
岡潔は数学の喜びを、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと描写した。詩的。
無心で没頭するとき、そこに私とか客体などはなくなって一体となる感覚。数学と一体すること、数学の流れそのものになること。「数学」と「身体」とが交わる場所を、この目で確かめたい。そのように著者は数学を学び始めたのだ。素敵。
生体が環境をいかに体験するかについて、ユクスキュルの「生物から見た世界」を引き、人が生きるのは客観的な環境世界についての刺激入力のみではなく、「主体にしかアクセスできない」要素が混入する「風景」であるとする

ユクスキュル/クリサート著「生物から見た世界」

数学もまた固有の風景を編み、その中で数学者が数学することで新たな風景を生み出し、風景に誘われてその風景の中で旅人になる。なんてロマンティックなんだ!

第4章も岡潔芭蕉の句から情緒を感じ、自他を超えて通い合う「情」と肉体に宿る「情緒」とを行き来することに「わかる」を見出した。「自分の」という限定を外していくこと。同化、無我、無心がまずあって、ふと私=有心に還ること。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。

終章ではこれまで歩んできた論考を鳥の目で眺める。アラン・チューリング岡潔。数学を通した心の究明の二つのアプローチがあった。人間の心が玉ねぎだとして、チューリングは玉ねぎの皮を剥いでいくアプローチをとる。剥ぎ取って、全て皮だったら、心とはパーツに還元されうるただの機械なのか。パズルが解けないことの証明は困難だ。解いてみるまではわからない。岡潔は玉ねぎが玉ねぎとなる種子の力、それを包み込む土壌にこそ目を向けた。皮をどこまで剥いても、玉ねぎを理解することにはならないだろう。玉ねぎの種子の力もまた、玉ねぎそのものではないだろう。どちらのアプローチも不可欠であるが十分ではないのかもしれない。そうと分かりながらも、旅をする風景を楽しむことはできるはずだ。

詩情豊かで端正な文章の中に、科学的な発想の面白さと驚きが輝く。身体で感じ・考える。そして身体を超えて漏れ出す。身体の延長が思考となって再帰する。そんなふうに何かを感じられたら、全ての問いは自己理解につながっていくのかもしれないと思った。

著者の他の作品もぜひ読みたい!

 

 

4月12日の日記

嫌な夢だった。割と現実に根差した絶妙に嫌な夢を見ることがある。それか、明らかに過去に嫌だった経験が反映されている夢を見たりとか。大体が迷う、わからない、決まらない、それによって何かが間に合わない。それか綺麗なトイレが見つからない。

今日の読書は昨日に引き続いて、「数学する身体」を読了。

第4章は再び岡潔。フランス留学で味わった充足と欠乏。芭蕉の句から(情+緒)とでもいうものを感じ取り、自他を超えて通い合う「情」と肉体に宿る「情緒」とを行き来することに「わかる」を見出した。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。

終章ではこれまで歩んできた論考を鳥の目で眺める。アラン・チューリング岡潔。数学を通した心の究明の二つのアプローチがあった。人間の心が玉ねぎだとして、チューリングは玉ねぎの皮を剥いでいくアプローチをとる。全て剥ぎ取って、全て皮だったら、心とはただの機械なのか。パズルが解けないことの証明は困難だ。解いてみるまではわからない。岡潔は玉ねぎが玉ねぎとなる種子の力、それを包み込む土壌にこそ目を向けた。皮をどこまで剥いても、玉ねぎを理解することにはならないだろう。玉ねぎの種子の力もまた、玉ねぎそのものではないだろう。どちらのアプローチも不可欠であるが十分ではないのかもしれない。そうと分かりながらも、旅をする風景を楽しむことはできるはずだ。

 

本書より引用(岡潔が晩年、講義中にした発言を要約した部分)

小川のせせらぎを構成する水滴の描く流線や速度は、いずれも重力その他の自然法則によって決定されている。しかし、その水滴の運動を人間が計算しようと思えば、厄介な非線形偏微分方程式を解く必要がある。ある程度の近似を許したとしても、現実的な時間内でそれを正確に解くことは難しい。にもかかわらず、小川の水は流れている。これはいかにも不思議である。

なんかわかるなぁ、この感覚。脳について考える時の脳みたいな感覚。「考えること」自体が組み込まれていく。その畏怖、不可思議。

 

本書の著者 森田真生 編の岡潔の著作からの選集「数学する人生」、「計算する生命」も読みたい。

 

そしてジャネット・ウィンターソンの「灯台守の話」を読み始める。昨年から岸本佐知子さんの翻訳作品と岸本佐知子本体にハマっている。ジャネット・ウィンターソンめっっちゃ好き。冒頭からいきなり面白いのだが。読み進めるのが楽しみだ。

 

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4月11日の日記なのか

眠かったなあ、今朝。
今日の読書は森田真生の「数学する身体」できれば読み終えたいなあと思っていたけど、無理そう。内容はすごくエキサイティング。

第1章では思考することと行為することの分かち難さ、身体機能の拡張としての道具の使用についてなど。環境に包まれつつ環境に影響を与え利用する「環世界」的発想が提示されている。この辺りのテーマは別に数学でなくても良いのかもしれないけど、数学が身体に根差したものだという本書の視点は興味深い。

第2章の主役はヒルベルトからのアラン・チューリングへ。「数学」の計算部分を機械に託すときに何が起こるか。認知科学人工知能の発展のものすごく先端を独走したチューリングの先見性たるや。チューリングの独自性や純粋性は数学にとどまらず社会とは激しく摩擦した。奇人変人的な逸話を持つ数学者は多いが、チューリングも御多分に漏れない。とにかく極端な人だったんだなぁ。

第3章の数学スターは岡潔。著者の数学探究の原風景をたどっていく。
岡潔は数学の喜びを、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと描写した。詩的。
無心で没頭するとき、そこに私とか客体などはなくなって一体となる感覚。純粋経験や直接経験と表現されるような状態だろうか。今ふうにいうと、「マインドフルに」。数学と一体すること、数学の流れそのものになること。「数学」と「身体」とが交わる場所を、この目で確かめたい。そのように著者は数学を学び始めたのだ。素敵。
生体が環境をいかに体験するかについて、歴史的名著、ユクスキュルの「生物から見た世界」を引き、その中の「魔術的環世界」こそが人が経験する「風景」であるとする。人が生きるのは客観的な環境世界についての刺激入力のみにあらず。いわゆる「認知」とでもいうのか「主体にしかアクセスできない」要素が混入している「風景」。数学もまた固有の風景を編み、その中で数学者が数学することで新たな風景を生み出し、風景に誘われてその風景の中で旅人になる。なんてロマンティックなんだ!
第3章の後半は数量の感覚と位置関係の感覚の分かち難さ(同じ脳領域が活性)、脳だけ見ても脳のことはわからないこと、模倣と共感、皮膚が生体の境界のみならず意識の境界をも隔てている可能性などを俯瞰していく。
ユクスキュル、ミラーニューロンやラマチャンドランの研究まで登場して、この著者と私の読書傾向というか興味分野が似てる気がしてきた。

いずれも名著。

ついでに読みながら連想した本↓

面白かった。今日は第3章までとして明日読み切れるといいな。

連日に、私の生活に出来事というほどのことは起こらず、徒然なるままに心にうつりゆくよしなごとを書くと自然、読書の感想になってしまって、でもそれは読書記録で書くべきことで、でもいざ読書記録書くぞーとなるとなんとなくかしこまっちゃうというか書き出せなかったりするので、こんなふうにだらだら書いてみたほうが書けるというのは発見だ。だからおんなじことを読書記録の方でも書くと思うけど、一番フレッシュな形で、ここにも残しておこうと思い。

読書記録:チョ・ナムジュ「82年生まれ、キム・ジヨン」

チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ(2024年2月19日読了)。

 

これを読んだきっかけは、頭木弘樹編のアンソロジー「うんこ文学」に収録されている、ヤン・クイジャ著、斎藤真理子氏の新訳による「半地下生活者」を読んだことだった。
「半地下生活者」は「ウォンミドンの人々」という連作短編集の一編で、社会格差の中での個人の生活や心持ちについて丁寧に描かれていたる作品だ。主人公はトイレのない半地下の部屋に住み、上階に住む部屋のオーナーからトイレを貸してもらえない。同じ地区にある職場(自動車のマット工場)も半地下にあり、半地下to半地下の生活の貧しさが切ない。トイレ問題と貧しさ以外には目を引くところのないような静かな日常を描きながらも、読んでいて退屈さは感じさせず、短編集を全編読んでみたくなった。

韓国文学はここ数年すごく気になりつつも、言ってしまえばマイナー言語であり、翻訳はどうなのかしらという不安から積極的になれずにいた(話題作の中から過去に読んでみたひとつがあまり良いと思えなかったことも要因としてあった)。「半地下生活者」の訳がとてもよかったので、再チャレンジは「82年生まれ、キム・ジヨン」からと思って本作を読んでみたのでした。

2015年にキム・ジヨン氏に起きた異常から物語は始まる。その年の秋、キム・ジヨン氏は母や大学の先輩など、身近な女性の言葉を語り始める。夫に連れられて精神科を受診したキム・ジヨン氏は精神科医である「私」の提案でカウンセリングを受ける。カウンセリングで語られたキム・ジヨン氏の半生がこの小説の主要な部分となっている。キム・ジヨン氏の語りを通して、自分には考えの及ばなかった世界が存在することに「私」は気づくが…

 

大胆な構成と強烈なメッセージ。一気読みしながら何度もぶっ叩かれているような衝撃を受けた。私には見えていなかった不公正があったし、見えているのに存在しないかのように振る舞ってもいた。大したことじゃない、騒ぎ立てることではないと、矮小化したり、なかったことにするのは間違った姿勢なんじゃないかって初めて思った。
本作が「フェミニズム文学」と呼ばれていることも知らずに手に取れたことは本当にラッキーだった。こんなふうに自分の中にあるフェミニズムについての偏見に邪魔されずに読むことができたから。

 

この小説はあるひとりの女性による告白であると同時に、すべての女性の声にならなかった言葉だ。物語の中で開かれ、物語の外にも開かれる言葉はしかし、心を打つだけではなにも変えることができないという現実の象徴として物語の中で閉じられる。
キム・ジヨン氏や周囲の女性たちの経験を通して女性の生きづらがはっきりと描き出される。出席番号が男子からつけられるというような、一見なんでもないような日常のこと。何時代なんだろうと思うような理不尽さ。差別や迫害から守ってくれたり助けてくれる親切な人もいる。対等に向き合えるパートナーや同僚もいる。だけど歴史と人の信念に根を張った構造を変えていくことの困難さ。この人生で社会構造を乗り越えようとするときには何かを諦めなくてはならなかったり、後に続く女性の権利を奪ってしまうかもしれないというジレンマ。同じ苦しみを持つ人に恨まれてしまうかもしれない孤独。ジヨン氏の母が男の兄弟の学費を稼ぐために働いた過去や、家族や子どもたちを養うために商才を発揮していくかっこいい姿、娘たちの職業選択など将来を思う姿に心打たれながらも(本当に母がかっこいい、母親ってすごいと思って感動したんだけど)、賞賛することのむごさということを初めて考えた。献身したくてしてないんだよ、それはもちろん非常に困難なことで、並外れた努力をしてきたんだけれど、犠牲を払わずに生きられた方がよかったに決まっているから。賞賛されると本当は嫌だったなんて言いにくくなるから。差別や社会構造の問題を美徳とすり替えてはいけないんだ。

 

それでも心に残ったのはやっぱりキム・ジヨン氏と母のシーンだった。
キム・ジヨン氏が就職活動で内定をもらえないで落ち込んでいるときに、父が発した無神経な言葉「おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」に激怒する母のセリフがたまらないほど好きだ。
「いったい今が何時代だと思って、そんな腐り切ったことを言ってんの? ジヨンはおとなしく、するな! 元気出せ! 騒げ! 出歩け! わかった?」
私はおとなしくしない。

 

4月10日の日記


7時台には覚醒していたが、休日ということでやっぱり8時過ぎの起床。

カフェラテを淹れて昨日読みきれなかった「宇治拾遺物語」を読み切る。時代設定がハッキリしない話も多いという宇治拾遺物語町田康の訳では「けっこう前」「かなり前の話」など「前」のバリエーションが豊富であり、前のレパートリーを読むだけでもちょっとおもしろ。さくさくと読めた。民衆の爆笑によって終わっている話が半分くらいかな。楽しそうでなにより。

 

 

ちょっと前に読んだ「82年生まれ、キム・ジヨン」の感想を途中までまとめる。有名な作品だけど、この作品はすごい。このすごい感じをなんとか言葉にしたいと思い続けていたけどこれが難しいのね。構成がすごい、思い切っている、勇気あると思う。内容もすごい。啓蒙的である。女性の生きづらさ。構造を変えていくことの困難さ。この人生で社会構造を乗り越えようとするときには何かを諦めなくてはならなかったり、後に続く女性の権利を奪ってしまうかもしれないジレンマ。同じ苦しみを持つ人に恨まれてしまうかもしれないなんて辛すぎる。ジヨン氏の母が男の兄弟の学費を稼ぐために働いた過去や、家族や子どもたちを養うために商才を発揮していくかっこいい姿、娘たちの職業選択など将来を思う姿に心打たれながらも(本当に母がかっこいい、母親ってすごいと思って感動したんだけど)、賞賛することのむごさということを初めて考えた。献身したくてしてないんだよ、それはもちろん非常に困難なことで、並外れた努力をしてきたんだけれど、そんなことをせずに生きられた方がよかったに決まっているから。賞賛されると嫌だったなんて言いにくくなるから。差別や社会構造の問題を美徳とすり替えてはいけないんだ。

そうそう。こういうことを書きたかったんだな。日記で書こうとした方が思いを素直に書けるのかもしれない。後で、読書記録の方にもコピペしておこう。

 

 

休日なので、お昼前からどこかに出掛けておしゃれに過ごそうとか思い、お昼ご飯はしゃば蔵で羊だらけのキーマカレーを食す。大辛が割と辛かった。食後、何か欲しいものを探して駅ビルをうろうろしたけど特に見つからず。今日の目的地、おひとり様専用の読書室CAVE STOREへ。お店の扉への入り口がすごい狭い。転げ落ちそう。なかなか入りにくい構えである。お店のドアは割といい勢いで開いて、すぐにカウンターあり、奥に一人用のデスク席3席と、カウンター席。空いてたデスク席に陣取り、今日の文庫を読む。カフェオレを注文。カフェオレボウルが大きい。カフェオレが熱い。とても静かで落ち着いた雰囲気で良かった。時計の秒針のチコチコ音がでかいけど、今日はそこまで気にならないコンディションだったからOK。卓上のメモ帳には、お客さんが残していったおすすめの本や、その日に読んだ本の記録などが書き付けられていて、私もなんか書き残そうと思ったけど本読んでたら忘れちゃった。また行きたい。