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読書記録:カミュ「異邦人」

カミュの「異邦人」を読んだ。読書会の課題本でした。

第一部は養老院から届いた母の死の報せからはじまる。

きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。

あまりにも有名な一文である。このパラグラフに注目すると、「私にはわからない」「何もわからない」とわからなさが輪唱されている。私たちが何もわからないことについて読んでいくことにしようと思う。

主人公ムルソーは母の死に際しても表面的には感情を表さない。涙を流したり、亡骸に縋ったりなどはせずに、生理的欲求に従って疲労すれば眠り、ニコチンが欠乏すれば喫煙する。生前の母の友人たちと悲しみを分かち合うということもないし、葬儀の後は速やかに自宅に戻ってよく眠り、海水浴に出かける。

ムルソーは無感動なニヒリスト、冷血漢に見えるかもしれないが、ものすごく正直な人間のように描写されている。正直であることに誠実すぎるくらいで、まず嘘や誇張は言わないし、言わなくてもいいような正確なところを口にするので、そこが魅力であるにはあるが彼女にも半ば呆れられているような程度なのである。

彼女に「あなたは私を愛しているか」と尋ねられてムルソーが曰く

それは何の意味もないことだが、おそらく愛していないと思われる

と答えるくらい正直なやつである。素直か。言わんでいいやんそんなこと。濁せばいいじゃん。「君は素敵だよ」とか本当に思っていることだけ言えばいいのにそういう小器用なことはできないのか主義に反するかするような主人公なのである。

そんなムルソーが人を殺めてしまってその動機がどうも判然としないっていうのはみんなが知っている通りで、第二部では刑務所の暮らしと裁判の様子が描かれていくのだけど、裁判では死んだアラビア人のことなんかみんなどうでもいいみたいで(これに関してはムルソーも割と無関心のように見えるが犯罪事実についてもちゃんと話し合ってほしいと思っていたように読み取れる)、母親が死んだのにムルソーが無感動であったことなどばかりをやんやされて刑罰がほとんどレトリックで決まって行くことに強く違和感を覚えた(罪刑法定主義に反してるんじゃないか?)。だからむしろ意味づけから超然としているかのように見えるムルソーに同情的な気持ちになったのだけれど、これは時代的な感覚なのかな。当時の人々はこのような裁判が実際にあったとしたら、どう受け止めていたのだろうか。

問題の殺人の動機については小説の中でもかなり曖昧に述べられているに過ぎない。動機そのもののわからなさは実はそれほど重要ではなくて(作中でも一笑に付されただけ)、むしろ「理由なんてよくわかんないことがあるし、それはそのままではいけないのですか。あなたが納得できるかどうかは真実と何の関わりもない」ということを極端なシチュエーションで表現したものなんじゃないかと思った。その考え自体を全く拒否するという人は少ないのではないかと思う。わからなさを抱える力のような概念(ネガティブ・ケイパビリティ)もちょっと注目されたし、安易にわかりやすい「結論」に丸めてしまうことの危険性ということはあえて強調するまでもないことのように思われる。それが人を殺して理由なんて知るかよっていうのはちょっとどうなのかとは思うけど、わかりやすいストーリーがある「だけ」で安心してしまっていいわけがない。その意味で究極の不親切と誠実さは表裏なのかもしれない。真実をとるか、親切をとるかの命をかけた選択の時に、ムルソーは真実を選んだのだろう。
だから不条理というなら、殺人の動機が不透明と云うようなことではなく、了解性や物語性がないと何事をも理解できないという立場の方にあるのではないか。わかりやすいお話なんて、そんなものはないかもしれないのに。そんなものはなくてもアラビア人はムルソーの銃弾によって死に、ママンが死んだことはムルソーの責任ではないというのに。

カミュが「異邦人」の英語版に寄せた自序を以下に引用する。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるより他はないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。
《略》
しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。

作中から十分に読み取れる主題であり、極端に誇張された表現を取ることでスッキリと府落ちすることも阻止されていて、名作が名作たる所以であると思った。

真実の他には何も求めなかったムルソー。真実の存在以外の意味づけを拒否し、そんなもんなくても生きて行けるし死にも向かって行けるのだと自らに証明した。生ぬるいことを言ってくるやつにもブチ切れてやった。ムルソーの胸に到達した最後の光は、何もかも無意味であることの開かれた意味に癒されるような感覚なのだろうかと想像した。諦めるということの語源は明らかにすることだという。絶望からこそ出発していこうとすることに一種の希望が見出せるのかもしれない。
とは言い条、個人的にはちょっと行き過ぎのように思われる。あと二十年と言わず、四十年は生きたい。まだ絶望する時間ではない。