読書とカフェの日々

読書感想文と日記

5月14日:カフェで笙野頼子

昼前に役所。松屋ネギ塩豚カルビ丼。それからどうしようか。うーん。あっち行くかこっち行くか。ちょっと悩んで行ったり来たりして、MINGUS  COFFEE初入店。カウンター席。今日のような天気だったらテラス席も気持ちよさそう。人気店で、前回訪問時は満席だったので下の階のroach roasterを利用した。何が違うのかなーと思っていたけど、JAZZ喫茶なんだ。居心地がとても良かった。中町JP的なお兄さんがかける音楽もGOODでした。オレンジカフェオレで読書。

今日の読書は昨日の続き。笙野頼子三冠小説集」より三島由紀夫賞(1994年 第7回)の「二百回忌」野間文芸新人賞(1991年 第13回)の「なにもしてない」を読んだ。執筆時期的には遡っていく感じ。「なにもしてない」の時は沢野は八王子の後に学生専用になるマンションに住んでいる。その後、都立家政に転居。

それで、「二百回忌」

私の父方の家では二百回忌の時、死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて、法事に出る。《略》法事の間だけ時間が二百年分混じり合ってしまい、死者と生者の境がなくなるのだ。

(二百回忌より引用)

またあ。引き強センテンスきたこれ。本当に強い。
主人公の沢野は東京に棲みついて久しく、二年前には親とも縁を切っていたが、二百回忌の知らせが届くとたちまち理性を失ってしまう。

とりあえず死者が蘇るのが見られる上、法事の間中ありとあらゆる支離滅裂なことも起こるのだという。

二百回忌は普通の法事とは違い、専用の赤い喪服、赤いカバンに靴にストッキング…と全員がカズレーザー的な装いでやってくる。法事を執り行う本家の最寄りの駅では時間が溶け崩れてしまっている。着いてみると本家は二百回忌用に無惨にリフォームされており、母屋の中央部から八棟のプレハブを生やし、外壁は真っ赤に塗られている。参列者は本家に着くと、鷹の爪を煮た湯を飲まされる。真っ赤な袈裟をかけた僧侶が二十人程も入ってきて烏の鳴き声で経を読む(後に半分は蘇ってきた僧侶だとわかる)。無茶苦茶な会食の後、沢野は蘇ってきてはいないかと母方の祖母の姿を捜し出すが、祖母は沢野のことを覚えておらず、他人行儀。悲しい。

いくら戻ってきていても会ったとは呼べない場合があるのだと判った。

切ないシーンである。その後も蘇った父方の祖母や祖父を見に行ったり、法事では「全てをめでたくし、普段と違う状態にしなくてはならない」のに若当主の姉が尋常のことを言って鳥にされてしまったり、プレハブの外壁に薬品をかけると溶けて中から蒲鉾と薩摩揚げが出てきたりなどめちゃくちゃな展開になる。わはは。なんじゃこりゃ。なんかスゴイっすねと半笑いが、解説で真顔。

家と嫁の、親と子の、血縁と義理の、そして噂としきたりの、濃密なスープに人間の個性も人格も溶かし込んでしまうフルサトという怪物を、「二百回忌」は反逆的に想像力で食い破ってしまう試みである。《略》
「普段のこと」を破壊するとは、日本的共同体の思想を破壊するということだ。
(清水良典氏の解説を引用)

うわあ。そう言われると確かにそのように読めるけど、自力では無理だな。えぇ。スラップスティックなドタバタ描写でコーティングしておいて、とんでもねえこと書いてんですね。とんでもねえ&やんごとねえ&考えが及ばねえ。おほほ。と読むことしかできないわたくしは恐れ入ってしまった。経験値も読解力も思考力もなにもかも足りてなさを思い知ったのだった。ブンガクぱねえ。そんなでちょっと疲れたので明日はコメントしやすいものをなんか読みたいな。