読書とカフェの日々

読書感想文と日記

5月13日:笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」(河出文庫ver.)

昨日の予告の通り、今日は笙野頼子三冠小説集」より「タイムスリップ・コンビナート」を読んだ。

芥川賞受賞作(1994年上半期 第111回)である。他二編も三島由紀夫賞野間文芸新人賞受賞作と新人賞三冠作品なのであるが、同文庫の出版以前にはいずれの作品も単行本、文庫本ともに入手困難となっていたため、三作品まとめて2007年に再文庫化されたのが本書だ。元の版で増刷して欲しいという読者の声もあったそうだが、“一旦出した文庫を復活させるのは至難の技“だそうで、今日の日記のタイトルに(河出文庫ver.)としたのは、この再文庫化の際にかなり手入れをしたとあとがきに書かれていたためで、受賞した当時の作品からどのくらい変化したのかは私にはわかりようがないので、一応そのように書いた。手入れ前の作品も読んでみたいものである(単行本を図書館で借りるのが良いかな)。

ところで昨日は、「タイムスリップ・コンビナート」の冒頭の文章を引用して

去年の夏頃の話である。マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつから、いきなり、電話が掛かって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局海芝浦という駅に行かされる羽目になった。

とりあえず同じ箇所を引用しておくけれども、この冒頭の文章を引用して、ひきこまれるわーなんて言ってたのだが、この後の展開は全く予想を裏切るというか、しっちゃかめっちゃかというか、何も起こらないというか、何が起きているのかわからないというか、またコメントが非常に難しいものを読んでしまった感が。また岸本佐知子につかまされてしまった感が。それらのしまった感がすごく、急遽所見をまとめて書いておかねばという焦り。冒頭の紹介で、うっかり読もうと思ってしまった人もいるかもしれないから、止めるべきは止めないといけない。ちょっと早まらないで。だからちゃんと紹介しますね。

あらすじとしては、上記のようなある日、謎の人物から電話がかかってきてともかくどこかに出掛けろとしくこく言われ、数々のずらし工作などの抵抗も虚しく、主人公である作家でひきこもりの沢野は海芝浦へ向かう。ちなみに、海芝浦駅というのは、駅のホームの片側が海で反対側の改札が東芝の工場の入口であり、東芝の社員でない限り海に飛び込むしか外に出る方法はないというケッタイな駅なのである。
東京は都立家政から東京駅、東京駅から鶴見、鶴見から浅野、途中下車して沖縄カイガン、その後再び電車に乗ってついに海芝浦に到達するのだが、その道中で見たこと聞いたこと思い出したことが書かれている紀行文の体裁をとった小説なのである。って。あれ。岸本佐知子「死ぬまでに行きたい海」ってやっぱり全体がこの作品のオマージュなのかなぁ。素人写真も撮ってきているし。

死ぬまでに行きたい海

死ぬまでに行きたい海

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鶴見から海芝浦に至るコンビナート風景に郷里の四日市を重ね合わせつつ、昭和と平成を行きつ戻りつするタイムスリップ感(スーパージェッターもそこにかけているのだろうが古すぎて誰もわからない)、幻想夢現の描写の不可思議。結局は恋愛用のマグロとはなんだったのかは少なくとも読者にはわからずじまいで、東芝の工場で沢野とマグロが良い仲になったりはしないし(割とそういうのも読みたかった)、海芝浦に行ったからといって劇的な何かが巻き起こったりもしない。何を見ても何か昔のことを思い出したり、どこかの一点に連想が収束してしまう時なんかがあったりする。今回は郷愁とチョコレートとコンビナートだったのである。

この辺の土地勘空気感は道産子の私には全くわからなくて、車窓の外にどんな風景が広がっているのかイメージを補う実体験を持ち得ず、電車のスピード感や揺られ感などもよくわからないのだけど、なんとなく都心を抜けたら札幌近郊の鈍行の感じ、コンビナートは苫小牧室蘭あたりの感じ感を想像しておけばいいのかなという気持ちで読んでいた。

河出文庫のあとがきでは、マグロは

近代が覆い隠してしまった宗教的感情のひとつのあらわれと考えている。マグロは神仏なのだと。

うん。うん。よくわかんない。

こっちの方がよくわかるというか同意できる評として、ネットで見つけた芥川賞丸谷才一の選評を引用しておく。

「むきだしな感覚の氾濫を、分別と才覚によつて口当たりよく水わりにして、ただしちつとも水つぽくしなかつたところがすばらしい。」

「しかしかういう具合に、横へ横へと感覚をずるずるつないでゆく作風は(文章の藝のかずかずはじつに見事なのですが)、おしまひにうんと花やかな業を一つ決めてくれなければ見物衆が困ります」

完全同意で笑つてしまつた。見物衆が困ちゃったです。困っちゃったけど癖になる。文章を読んでいるときが楽しいんだもの。時間があって意味がわからない話を読んでも怒らない人向けの心地よい感覚の小説だと思いました。