森田真生の『計算する生命』を読んだ。
森田は前作『数学する身体』で最年少で小林秀雄賞を受賞。前作は〈心と身体と数学〉をキーワードにして思考が展開されてきたのに対して、本書は心を形づくる「言語」と、身体を突き動かす「生命」、そして数学の発展を駆動してきた「計算」という営みが主題となっている。前作の感想文はこちら。
前作からの流れが編み込まれている部分もあるが、完全なる続編の位置付けでもないので、本書から読んでも特に問題なく読めると思う。私は前作があまりにも面白く、本書をタイトルと書影だけで買って読み始めてしまったので、てっきり生物の合理的な身体設計の話(巻貝や蜂の巣の構造など)かなと思い込んでしまったが、それは違った。
本書で著者は人間が「計算」という営みに生命を吹き込み続けてきた歴史をたどり直し、現代では感じることの難しくなった計算の手応えを取り戻していくことを試みている。
第一章は「わかる」と「操る」。数字や計算過程の表記法〈ノーテーション〉が認知的負荷を軽減し、より高度な問題に集中することを可能にしてきた過程が描写される。そして時に規則の帰結から新たな意味が見出される。操作と規則が、意味と「わかる」に先んじる。
計算において、自分が何をやっているかを「わかる」にこしたことはない。だが、まだ意味がわからないままでも、人は物や記号を「操る」ことができる。まだ意味のない方へと認識を伸ばしていくためには、あえて「操る」ための規則に身を委ねてみることが、時に必要になる。このとき、「わかる」という経験は、後から遅れてやってくるのだ。
第二章の「ユークリッド、デカルト、リーマン」では、演繹の形成の歴史をたどる。ユークリッドの幾何学にデカルトが代数的方法を持ち込み、数学に新たな地平を開いた。その後、アカデミーの変貌に伴い、学問の体系化と厳密な定義づけの必要に迫られてくる。第三章の記述に飛躍してしまうが、
直観的に自明と思えることを、漠然と信じている限り、新たな認識が生まれることはないのだ。わかっているはずのことを、厳密に掴み直していこうとするとき、その過程で何をわかっていなかったかが浮き彫りになる。漠然と何かを信じる代わりに、自分が何を信じてしまっていたかを明らかにしていくこと。創造の道は、ここから開ける。
本書の中でたびたび繰り返されるモチーフのひとつで、数学の歴史に幾度もこのような局面があったことがよくわかる。厳密に定義づける。直感的に自明と思われることを問い直すことで既知の概念に潜む仮説性を暴き出していく。そうして漠然とした自明さよりも具体的に正確に間違うことが学問を前進させてきた。第二章ではリーマンの仕事についても紙幅をとって書かれているが、ここで暴かれたのは私の数弱ぶりだった。私の数学についての知識の大部分は十八世紀以前の段階に止まっているらしい。巨人の肩が遠い。
第三章の「数がつくった言語」では、第二章でデカルトが追求した認識の確実さと、リーマンの数学に象徴されるような認識の拡張性や生産性がいかに両立するのかを問う。新しい論理学を構築することでこの問いに挑んだフレーゲが主役だ。フレーゲは命題を「項と関数」として捉え直し、論理学に革命をもたらした。彼はまた緻密な誤謬(ラッセルのパラドクス)ももたらしたが、その挫折は後世に大きな財産を残していく。論理学については以前から興味があって、本書を読んだことでもう少し知りたくなった。余談だけど、野矢茂樹の『まったくゼロからの論理学』がKindle Unlimitedに入っていたのでこれを読んで少し勉強してみようと思った。
第四章の「計算する生命」は、人工知能と身体性(認知科学)がキーワードだ。ある意味で計算はもともと、人間による機械の模倣であった。チューリングは計算の概念から限りなく人間を捨象し、規則に従う操作自体を取り出したが、この路線上で人工知能研究は行き詰まることになる。あらかじめ規定されたフレームの外に出ることができず(フレーム問題)、固定的な文脈の中で与えられた問題を解く以上のことができないのだ。「身体を持つ機械(知性)」がこの行き詰まりを突破していく。
この辺りのエキサイティングな転換点は『知の創生』で詳しく読むことができる。本書の参考文献には入っていなかったけど、私が読んだことのあるものの中ではピカイチでおすすめだ。値段も高いし多分想像の2倍くらい物体としてでかい(内容もごつい)ので購入は薦めない。図書館などで借りよう。
チューリングは、計算において身体や環境が果たす役割を一旦捨象することによって、純粋な計算を論理的に抽出することに成功した。だが、人工知能研究のさまざまなアプローチからの試行錯誤を経て、徐々に浮かび上がってきたのは生物の知性が、身体や環境から切り離されたものではなく、いかにこれと雑ざり合っているかだ。純粋な計算の概念から出発した認知科学の探究はこうして、猥雑な雑音にまみれた「生命」に再び鉢合わせしたのである。
終章は「計算と生命の雑種」。人間と計算の営みは粘土の塊を一つずつ対応させることで数を扱う時代からはるか遠くまでやってきたのだ。
計算の帰結を受け止め、意味を問い直し続ける営みが未知の世界を開いてきた。規則に従って記号を操ることと、その意味をわかろうとすることの緊張関係が、計算に生命を吹き込んできたのだった。(略)
人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み出し続けてきた計算する生命である。
胸熱である。書評や感想文というよりは拙いまとめのようになってしまった。計算という営みは単に機械的で無機質なものではなく、そこから新たな意味が萌芽し、認識を拡張していく有機的で創造的な営みであることを味わった。そして純粋な計算を取り出すことで、知性と計算の違いが浮き彫りとなって再び生命に出会ったことは意外な帰結なのだろうか。それはとても幸福な必然であるように感じた。