読書とカフェの日々

読書感想文と日記

7月のはじめのこと

7月になったね。自宅禁酒令から2週間弱が経過し、少し飲酒欲求が落ち着いてきた。ここを乗り切れば、なんとかなりそうだ。体重はまだアレだけど、もうそろそろ下降してくるはずだと思う。仕事も今週は落ち着いている。あと2回なんとか起床できるだろう。

この間の読書は、多和田葉子の『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』を読んだ。他言語の隙間に落ちてゆく感覚の快。『地球にちりばめられて』で魅了された言語の煌きの舞台裏ツアーのようでときめき倒しであった。

わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ヶ国語の間の隙間そのものが大切であるような気がする。わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない。

わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ、とも思った。

ライティングのワークショップの模様もいくつか紹介されていて、興味を惹かれた単語のリストから短い文章を書いたり、未知の言語の文字や音声から感じるままに物語を作り上げたりするのが、すごく楽しそうだと思った。

そして昨日と今日で、笙野頼子の『説教師カニバットと百人の危ない美女』を読んだ。

もうね。すごい。ぜんぜんまったく歯が立たない。もう無理わけがわからないと思ったけど、最後まで読んで主題とか構造が少し見えたような気がした(気のせいかもしれない)。もう少し勉強したい。純文学論争のことも絡んでいるのだろうし、その背景に性差別や保守的思想に対する問題意識があるのだろうが、まったく一筋縄ではない。自分の醜貌を押し出すことで女性性の外に出ることが実はミソジニーの発露なんではないか、そのことによってむしろ世の女性を見下げてきたんではないかみたいな衝撃? ちょっと誤読しているかもしれないからきっとこうなんじゃないか程度にもまだ書ききれないところがあるんだけど、他の著作も少しずつ読んで自分なりに消化できたらなと思っている。いずれにしても、このわけのわからなさはタダゴトではないでしょう。恋愛用のマグロにしてもさ。事件ですよ。そしてこういう事件をまーまーな頻度で起こし続けているところに文学の力があるんだと思う。私はもっと文学について知りたいんだ。

そうして文学について知りたい願望が最近募ってきて、筒井康隆の『文学部唯野教授』と『文学部唯野教授のサブ・テキスト』を購入した。

マケプレで買った『サブ・テキスト』の方が先に届いた。本体が届いたらすぐさま読みたい。