読書とカフェの日々

読書感想文と日記

我が愛しの。

岸本佐知子のことを。
岸本佐知子は、個性的な作家の声を届けてくれることで人気の翻訳家だ。
私は昨年にジャネット・ウィンターソンのオレンジだけが果物じゃないで出会って完全にやられてしまった。

作品が面白かったのはもちろん、訳者あとがきが素晴らしかった。翻訳家ほどひとつの作品を読み込むことってないのかもしれないと思う。読み込みの深さと精度、作者研究の切れ味に感激してしまって、以来毎月少しずつ岸本訳作品を読み続けている。素晴らしい仕事をたくさんされてきているので、まだまだ読む楽しみの尽きる心配はない。だけどもっと知りたいの佐知子のこと。このように思う読者は前にも沢山いたんだろう。そして後を絶たないのであろう。岸本佐知子は雑誌ちくまでの連載をはじめとして、エッセイの面白さにも定評がある(「ねにもつタイプ」では講談社エッセイ賞を受賞)。昨年文庫化された「ひみつのしつもん」も文庫のランキングで何度も目にしていたし、小さな書店でも平積みの状態であったのが記憶に新しい。

しかし、あえて言いたい。岸本佐知子のエッセイを読む際には細心の注意が必要だと。一流のワードセンスと計算ずくの緩急の予測不能さで切り込んでくるぞ。ぼーっとしていてはいけない。結末を予想できるなんて思ってもいけない。罠が仕掛けてあるんだ。それも見たことのないような独特なやつなんだ。うっかり乗せられると知らぬ間に虚構に迷い込んでいる。舵はどこで切られたのか。もはやエッセイを読んでいるのか短編集を読んでいるのか、わからなくなる。

初期のエッセイは昔話が多くて、よくそんな細かいこと覚えているなそしてよくそれを書こうと思ったなと感心すると同時に、老人なのかなって思って読んでいたんだけど、WEBのインタビュー記事を読んだところ、エッセイを書き始めて10年くらいは会社員時代の面白かったことや子ども時代の出来事を思い出して書いていて、翻訳の仕事を始めると家の中で引きこもるのでだんだん半径1メートルくらいの出来事を書くことが増えてきたと書いてあってなんだか納得した。子ども時代からはみ出した感性。長じてなお。半径1メートルの外に妄想と虚構の深淵。

それではここいらで個人的に好きな短編(じゃない)を紹介してみようかしら。

「ねにもつタイプ」より「ピクニックじゃない」
悲しい気分の時に小声で歌う「ピクニック」の替え歌の馬鹿馬鹿しさ。

丘を越えない 行かない 口笛吹かない
空は澄まない 青空じゃない 牧場をささない
《略》
ララララあひるさん(いない)
ララララララやぎさんも(いない)

ツクツクボウシ
翻訳の仕事中にツクツクボウシの鳴き声が気になって頭の中で鳴き声の校正をはじめたり、ふと全身でブラウン運動を表現してコーヒーをこぼし、分子の集散離合について思いを馳せ、「この部屋の中にも三年前にアマゾンの猿の肺の中で隣り合わせた酸素の分子どうしとかが再開を果たしているのかも」とか考えながら、感動の再会を阻止するべく手刀であたりの空気をシュッと切る。我を忘れて1年が過ぎ去る。

「なんらかの事情」では「物言う物」のトイレのくだりで爆笑。

「このトイレは、自動水洗です」
驚いた。便器に話しかけられることは、まったく想定していなかった。この先、さらに何か言うつもりだろうか。いろいろ指図したり感想を述べたりするのだろうか。そう考えだすと恐ろしくなり、何もしないで出てきてしまった。

また別の時には、トイレの「カルミック」を応援したい気持ちを抑えようと努力する(岸本佐知子の特殊能力のひとつに応援したものが姿を消すというのがある)。最近のプラスティック容器のものではなく、銀色の金属製のカルミックだ。きっと応援してしまったのだろう。とんと見かけない。

「海ほたる」では古いカーナビのナビゲーションについて妄想を膨らませて、脳内でカーナビに〈三里先、関所です〉とか言わせたりして最後は軽くホラーで締める。

「ひみつのしつもん」からは「地獄」がお気に入った。会社員時代のしょうもないような思い出話。何もかもを二回言わなければならないループから抜けられない。うっとおしいけど、やめられない。

「洗濯日和」ではベランダで物干し竿を落とした衝撃で先端のキャップ状のものが割れ、物干し竿の中からドロドロの液体が流れ出したときに意識が私と物干し竿とドロドロの液体に分裂してしまう。何を言っているかわかりますか。こればかりは「なんかわかるー」とはならんかった。すごい。

「気になる部分」(年代的にはこれが一番古い)では「オオカミなんかこわくない」がとても怖かった。ぎゃあ。これは本当に気をつけて読んでください。ちゃんと警告したからね。

こちらには好きな作家や作品についても少し書いてあって、これがきっかけで町田康「くっすん大黒」を読んだんだけど、まんまと町田康にもハマってしまった。

翻訳作品が面白いのも、エッセイが面白いのも良いのだけど、その上に紹介した作品まで必ず面白いのは如何ともし難い。書店で「岸本佐知子さん推薦!」とか書いてある帯を見ると、「うっ、この作家も読まなくてはいけないのかっっ」と読みたい本が無限に増殖してしまって積読が収集つかなくなる(この現象は佐知子に限らず多々あるが)。誰が責任を取ってくれるんだろう。佐知子だろうか。作品の面白さに免じ、ということだろうか。

世の中に書籍が溢れすぎていて人生の短さに泣きたくなるような気持ちになる。だからいつも大急ぎで読書。でも何度だって本当は読みたい。そして面白さや魅力を咀嚼して、自分なりに言葉に変えてみたいと思っている。今度も十分にはできなかった。読みたい本がありすぎるから。

そしてまた出るようだ。今度は白水社から。タイトルは「わからない」。5月26日発売だそうです。もう読みたい。そして色々な意味で苦しむ私の未来も既に見えている。

【私がこれまでに読んだ岸本佐知子訳作品】
・ジャネットウィンターソン「オレンジだけが果物じゃない」「灯台守の話」
・ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引書」「すべての月、すべての年」
・ジョージ・ソーンダーズ「十二月の十日」「短くて恐ろしいフィルの時代」
リディア・デイヴィス「ほとんど記憶のない女」
・ショーン・タン「セミ」「内なる町から来た話」
・アンソロジーの「変愛小説集」「コドモノセカイ」
【エッセイ集】
・ちくまの連載から「ねにもつタイプ」「なんらかの事情」「ひみつのしつもん」
・「気になる部分」
積読
ニコルソン・ベイカー「中二階」※読書中
ミランダ・ジュライ「最初の悪い男」※早く読みたい
・アンソロジー「変愛小説集2」、「変愛小説集日本作家編」※早く読みたい
・エッセイ「死ぬまでに行きたい海」※早く読みたい

ライティングの哲学(読書記録)

千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太による「ライティングの哲学」を読んだ。

本書には「書く」ことを一生の仕事にしながらも、「書けない」悩みを抱えた著者らが集い、各々のライティングを哲学し、新たな執筆術を模索する軌跡が記録されている。

構成は、著者らによる書けない悩みについての「座談会その1」、その2年後の執筆術の変化を書き下ろした「執筆実践」、それぞれの原稿を読み合っての「座談会その2」の3部からなる。

アウトライナー座談会」と銘打たれた「座談会その1」は、元々の趣旨としてはアウトライナーと呼ばれるツールを使用した執筆方法を見せ合い、楽に執筆するためのヒントを得ようというものであったようだが、議論は書けないことへの傷の見せ合いに発展。書くことの本質への探究へともつれ込んでいく。

千葉氏がファシリテーター的に発言を促していく形で座談会が進行していくが、初手から

前提として、方法を考えるということは、書くことに関する問題や苦悩があって、そこを突破するために行なっているものだと思います。

と方向性を示し、座談会はまさにこの路線で進んでいくことになる。千葉氏の言葉に呼応するようにそれぞれの執筆の悩み、無限の可能性ゆえの書けなさ、「制約の創造」がキーとなるのではという重要な指摘が続く。

書くこと、もとい「書いてしまうこと」にはある種の「諦め」や「ここまで(にやれ)」という制約が必要だという内容に激しく同意した。書くことやその最終産物の理想が高くなってしまう完成させたくない病を祓っていくスタイルは何かを生み出すときに必須だよなあと思う。そしてそれを駆動する一番の装置が「〆切」だったりするのかもしれない。「時間が王様」みたいな言い方もあるし。
読書猿氏の“わああーっと書いて、手に負えなくなったものは捨てて、自分に書ける範囲のものを残していく“という自分の「無能さ」でフィルタリングするという発想というか手法も面白い。読書猿氏ほどの有能な人に「己の無能さ」などと言われると宇宙の広大さと己のちっぽけさを同時に感じて途方もない気分になるが…
山内朋樹氏の庭の石組みの話はなんかすごいなって思った。庭を作る時、はじめに庭にでかい石なんか置いたらもう取り返しがつかなくて、その取り返しのつかないところから庭が生まれていく。とにかくそうして初めてみて、ここにこの石あるなら次はこうかなって、取り返しのつかなさが自生的に連鎖していくんだと。無限は手に負えない。いかに有限化するか。そうすることで不要な部分や実現不可能な部分が落ちていき、限定的な形が現れてくるのだと。至言です。

2部の「執筆実践」は、編集部からの執筆依頼を受けて「座談会を経てからの書き方の変化」のテーマで4氏の原稿が連なる。実際の〆切と原稿が提出された日時が記載されており、原稿提出順での掲載になっている。最初の〆切に間に合った書き手は読書猿氏のみであり、延期された〆切に間に合ったのが千葉氏と山内氏。締め切りを伸ばしてほしいと請い願い、延期した〆切に間に合わないという有終の美を飾ったのが瀬下氏であった。わかってるな〜。
それぞれのキーワードとして、「断念」「書かないで書く/即興で書く」「中間的テクスト」「執筆しないで原稿を作る」あたりになるか。それぞれがいかに己の神経症傾向をズラしていき、書いていると自分にバレないように書けるかに試行錯誤しているようで面白い。こんな高みの人々でも、やっぱり生身の身であり、書くことって怖いんだなって。
本論とは関係ないけど、読書猿氏に本業があることがこの部で一番衝撃だった。スゴすぎない。どうなってやがる。本業の方が「読書猿」名義よりも知名度が高かったりして。

ラスト3部の「座談会その2」は「執筆実践」で見出されたキーポイントを振り返るような形式。やっぱ〆切ってすごい効果あるよね、という話に花が咲く。〆切は伸びたりもするんだけど、どこかで線を引かれる、そこを目指して走るのだ、みたいな感覚こそ大事なんだろうなあ。「書き出し問題」も。千葉氏からはなんとなく日記みたいに書き出しちゃって、邪魔なら後でカットしちゃえという石組みアレンジ方式が提出される。

こうやってまとめてみても、はじめから終わりまで割とおんなじようなことしか書いていなかったりするけど、結論というものは一周回って出すものであって、ちゃんと一周回ることが論じるために、納得のために、伝わるために必要なことなんじゃないかと思う。大体良い結論って身も蓋もないから。

千葉 身も蓋もない話ですけど「書いていれば書けるようになる」ということはありますよね。量を書かざるを得ないから諦めざるを得ない、諦めるから量を書くことができるという相補的な過程があったと思います。

身も蓋もないっ。
それから、やっぱりなんらかの解決努力そのものが邪魔しているってことが往々にしてあって、そこは機能分析していくと良いだろうと思う。みんなの機能分析だよ。より良く書くために、ちゃんとやろうと意識すればするほど、それは書ける状態から遠ざかっていくのだとして、そこであえて書くために書かない、パラドキシカルな解決が立ち上がってくるのだろう。自分なりの、解決努力と、逆説的解決を探していくことです。

灯台守の話(読書記録)

ジャネット・ウィンターソンの「灯台守の話」を読んだ。

主な語り手の一人、主人公の少女シルバーは崖の上に斜めに突き刺さるようにして建つ家で母ひとり子ひとりで暮らしていた。ある日母が崖から落ち、10歳にして孤児となったシルバーは灯台守の盲目の老人ピューにひきとられ、灯台守見習いとして光を守るための物語を聞き・語る日々を送る。人生で錨をおろせる揺るぎないものを掴みかけたのもつかの間、灯台無人化されることになりシルバーは15歳で再び独りきりで人生の荒波に漕ぎ出していく。灯台の夜にピューから語られた100年前に生きたある牧師の数奇な人生の物語はいつしかシルバー自身の物語と交差していく。

物語の断片が荒波に揉まれるように時間と空間を切れ切れになって散らばって交差する語りから伝わる切実さ。断片を整理して順序よく並べたとして、よく理解したことにはならないだろう。そこにある語られ方に意味があり、意味自体が物語だから。これは物語について、物語ることについての物語だ。孤児のように寄るべない全ての魂の。どんなやり方で話せば良いかわからない人生の。

人生が途切れ目なくつながった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。途切れ目なくつながった筋書きなんてありはしない。あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ。

人生の波間を照らす物語は光だ。それは離散した粒子のようでもあり、波のようでもある。“ストレートに“語ることが真の経路を辿ることとは限らないってこともまた。絡まり合って、溶け合って、過去も現在も未来もいっしょに波に砕けている。どんな地点も時点もここにあって、ここにはなくて。別々の時と場所の小石をひとつの手で拾うことも容易い。

お話しして、シルバー。
どんな話?
その次に起こったこと。
それは事と次第によるわ。
事と次第って?
わたしがどう話すか次第だってこと。

作中のシルバーと著者のウィンターソンの生年は同じだ。ウィンターソンもまた孤児として養父母の元で育てられ、彼らの信仰の中に錨を下ろしたが、15歳で自身のセクシュアリティによって家も教会も追われ独力で大人にならなくてはいけなかった。明らかに自身の人生を重ね合わせて、人生の荒波の中で、確かに掴んでいられるものがない孤独が描かれている。そんな切実さの中にあって核となるメッセージは力強い。
何度もはじめから、物語をはじめられるし、何度も別のやり方で語り直すことができる。それが人生だ。だけどまた、こうもいう。

待っていてはだめ。物語は後回しにしてはいけない。
人生は短い。まっすぐのびたこの砂浜、そこをこうして歩いていき、やがて波が私たちのしてきたことを全て消し去ってしまう。

この語りは唯一無二。どうにも場違いな時にひょいと顔を見せるユーモアも大きな魅力のひとつだ。安定の岸本佐知子訳も洗練されていて、楽しんで読めて、深みもある。傑作でした。

千葉ルー(読書記録)

済東鉄腸の「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」を読んだ(2023年10月30日読了)。

まず、タイトルがすごいでしょ。そして表紙のイラスト(装画:横山裕一さん)も素敵。岸本佐知子も推薦しているのでこれは読むっきゃない。装丁の色彩の中で佐知子の名前だけが、鮮やかに脳裏のスクリーンに焼きついた。ちょうどこの頃から、私の中で岸本佐知子フェアが始まっていたんだけど、それはまた別の話で、まだ終わっていない話。

結論から言うと、タイトル真実《マジ》。実際に著者が経験した出来事がまんまタイトルになってるエッセイで、熱量が半端ない。鉄腸さんは本当に史上最強のひきこもりだよ。

四年間の暗黒の大学生活の締めくくりとして就活に失敗して引きこもり。汚らしく間延びした時間の中で受動的に観られる映画で心が癒されていき、映画批評を書き始める。そうするうちに日本の映画批評に不満を覚え、むしろネット上の「映画痴れ者」たちにシンパシーを感じ、日本未公開映画の批評を始めていく。その舞台はもちろんはてなブログの〈鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!〉。その中で人生を変える一本のルーマニア映画に出会って…

ここからのスピード感がすごいから是非みんなに読んで欲しい。元々が言語オタクとはいえ、ルーマニア語なんてどうやって習得したのか。その発想力、行動力がマジですごすぎる。いま己にできることに真正面から過激に徹底的に向き合い、奇跡のように美しい出会いや経験が鉄腸さんに降り注ぐさまは感動的で、興奮と歓喜と涙なくしては読めないほどだった。没頭すると瞬きを忘れるドライアイの者なので。佐知子とも相思相愛でうらやましいったらない。こんなふうに本気を見せつけられて、元気をもらえるし、私も真正面から本気を出せるかなって鼓舞されて、がむしゃらに夕陽に向かって走りたくなる(走行距離は50mとする)、そんな気持ちになった。何かをやりたくて、その方法は多分わかっているけど、動き出せない私たちみんなの心にこの本が届きますように!

 

 

数学する身体(読書記録)

森田真生の「数学する身体」を読んだ。

本書は森田真生の初の著書。本書で森田真生は最年少で小林秀雄賞を受賞。

本書のテーマは数学の身体性だ。数学は端から身体を超えていこうとする行為でありながら、それはただ単に身体と対立するのではなく、身体の能力を補完し、延長する営みでもある。本書で著者は、数学にとって身体とは何かを問い直し、数学に再び身体の息吹を取り戻そうと試みている。

第1章では思考することと行為することの分かち難さ、身体機能・認知機能の拡張としての数字・道具の使用と、その行為が次第に思考に組み込まれて再帰する過程が描写されている。紹介されている人工進化の研究が非常にエキサイティングだ。物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりとした境界はなく、ヒトもまたその例外でない。環境に包まれつつ環境に影響を与え利用する「環世界」的な発想が提示されている。

第2章の主役は「数学を数学する」ことを目論んだヒルベルトの潮流からアラン・チューリングへ。「数学」の計算部分を機械に託すときに何が起こるか。認知科学人工知能の発展のものすごく先端を独走したチューリングの先見性たるや。

第3章は岡潔とともに著者の数学探究の原風景をたどる。
岡潔は数学の喜びを、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと描写した。詩的。
無心で没頭するとき、そこに私とか客体などはなくなって一体となる感覚。数学と一体すること、数学の流れそのものになること。「数学」と「身体」とが交わる場所を、この目で確かめたい。そのように著者は数学を学び始めたのだ。素敵。
生体が環境をいかに体験するかについて、ユクスキュルの「生物から見た世界」を引き、人が生きるのは客観的な環境世界についての刺激入力のみではなく、「主体にしかアクセスできない」要素が混入する「風景」であるとする

ユクスキュル/クリサート著「生物から見た世界」

数学もまた固有の風景を編み、その中で数学者が数学することで新たな風景を生み出し、風景に誘われてその風景の中で旅人になる。なんてロマンティックなんだ!

第4章も岡潔芭蕉の句から情緒を感じ、自他を超えて通い合う「情」と肉体に宿る「情緒」とを行き来することに「わかる」を見出した。「自分の」という限定を外していくこと。同化、無我、無心がまずあって、ふと私=有心に還ること。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。

終章ではこれまで歩んできた論考を鳥の目で眺める。アラン・チューリング岡潔。数学を通した心の究明の二つのアプローチがあった。人間の心が玉ねぎだとして、チューリングは玉ねぎの皮を剥いでいくアプローチをとる。剥ぎ取って、全て皮だったら、心とはパーツに還元されうるただの機械なのか。パズルが解けないことの証明は困難だ。解いてみるまではわからない。岡潔は玉ねぎが玉ねぎとなる種子の力、それを包み込む土壌にこそ目を向けた。皮をどこまで剥いても、玉ねぎを理解することにはならないだろう。玉ねぎの種子の力もまた、玉ねぎそのものではないだろう。どちらのアプローチも不可欠であるが十分ではないのかもしれない。そうと分かりながらも、旅をする風景を楽しむことはできるはずだ。

詩情豊かで端正な文章の中に、科学的な発想の面白さと驚きが輝く。身体で感じ・考える。そして身体を超えて漏れ出す。身体の延長が思考となって再帰する。そんなふうに何かを感じられたら、全ての問いは自己理解につながっていくのかもしれないと思った。

著者の他の作品もぜひ読みたい!

 

 

82年生まれ、キム・ジヨン(読書記録)

チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ(2024年2月19日読了)。

 

これを読んだきっかけは、頭木弘樹編のアンソロジー「うんこ文学」に収録されている、ヤン・クイジャ著、斎藤真理子氏の新訳による「半地下生活者」を読んだことだった。
「半地下生活者」は「ウォンミドンの人々」という連作短編集の一編で、社会格差の中での個人の生活や心持ちについて丁寧に描かれていたる作品だ。主人公はトイレのない半地下の部屋に住み、上階に住む部屋のオーナーからトイレを貸してもらえない。同じ地区にある職場(自動車のマット工場)も半地下にあり、半地下to半地下の生活の貧しさが切ない。トイレ問題と貧しさ以外には目を引くところのないような静かな日常を描きながらも、読んでいて退屈さは感じさせず、短編集を全編読んでみたくなった。

韓国文学はここ数年すごく気になりつつも、言ってしまえばマイナー言語であり、翻訳はどうなのかしらという不安から積極的になれずにいた(話題作の中から過去に読んでみたひとつがあまり良いと思えなかったことも要因としてあった)。「半地下生活者」の訳がとてもよかったので、再チャレンジは「82年生まれ、キム・ジヨン」からと思って本作を読んでみたのでした。

2015年にキム・ジヨン氏に起きた異常から物語は始まる。その年の秋、キム・ジヨン氏は母や大学の先輩など、身近な女性の言葉を語り始める。夫に連れられて精神科を受診したキム・ジヨン氏は精神科医である「私」の提案でカウンセリングを受ける。カウンセリングで語られたキム・ジヨン氏の半生がこの小説の主要な部分となっている。キム・ジヨン氏の語りを通して、自分には考えの及ばなかった世界が存在することに「私」は気づくが…

 

大胆な構成と強烈なメッセージ。一気読みしながら何度もぶっ叩かれているような衝撃を受けた。私には見えていなかった不公正があったし、見えているのに存在しないかのように振る舞ってもいた。大したことじゃない、騒ぎ立てることではないと、矮小化したり、なかったことにするのは間違った姿勢なんじゃないかって初めて思った。
本作が「フェミニズム文学」と呼ばれていることも知らずに手に取れたことは本当にラッキーだった。こんなふうに自分の中にあるフェミニズムについての偏見に邪魔されずに読むことができたから。

 

この小説はあるひとりの女性による告白であると同時に、すべての女性の声にならなかった言葉だ。物語の中で開かれ、物語の外にも開かれる言葉はしかし、心を打つだけではなにも変えることができないという現実の象徴として物語の中で閉じられる。
キム・ジヨン氏や周囲の女性たちの経験を通して女性の生きづらがはっきりと描き出される。出席番号が男子からつけられるというような、一見なんでもないような日常のこと。何時代なんだろうと思うような理不尽さ。差別や迫害から守ってくれたり助けてくれる親切な人もいる。対等に向き合えるパートナーや同僚もいる。だけど歴史と人の信念に根を張った構造を変えていくことの困難さ。この人生で社会構造を乗り越えようとするときには何かを諦めなくてはならなかったり、後に続く女性の権利を奪ってしまうかもしれないというジレンマ。同じ苦しみを持つ人に恨まれてしまうかもしれない孤独。ジヨン氏の母が男の兄弟の学費を稼ぐために働いた過去や、家族や子どもたちを養うために商才を発揮していくかっこいい姿、娘たちの職業選択など将来を思う姿に心打たれながらも(本当に母がかっこいい、母親ってすごいと思って感動したんだけど)、賞賛することのむごさということを初めて考えた。献身したくてしてないんだよ、それはもちろん非常に困難なことで、並外れた努力をしてきたんだけれど、犠牲を払わずに生きられた方がよかったに決まっているから。賞賛されると本当は嫌だったなんて言いにくくなるから。差別や社会構造の問題を美徳とすり替えてはいけないんだ。

 

それでも心に残ったのはやっぱりキム・ジヨン氏と母のシーンだった。
キム・ジヨン氏が就職活動で内定をもらえないで落ち込んでいるときに、父が発した無神経な言葉「おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」に激怒する母のセリフがたまらないほど好きだ。
「いったい今が何時代だと思って、そんな腐り切ったことを言ってんの? ジヨンはおとなしく、するな! 元気出せ! 騒げ! 出歩け! わかった?」
私はおとなしくしない。

 

世界はなぜ地獄になるのか(読書記録)


橘玲の「世界はなぜ地獄になるのか」を読んだ(4月3日読了)。

 

序文で著者は“リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義している。近代以降、人類史上とてつもなくゆたかで平和な時代が到来し、「自分らしさ」を追求できるようになった。反面、あからさまな不公正や差別を取り去った後に残された限りなく微妙な領域の中でなんとか上手くやっていかなくてはならいという難題が突きつけられている。

リベラル化の潮流は必然で止めることはできないが、リベラル化によって格差が拡大し、社会が複雑化して生きづらくなっていることを著者は指摘する。そして本書では、「誰もが自分らしく生きられる社会」を目指す社会正義の運動が、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していく現象が考察されている。

PART1では日本にキャンセルカルチャーの到来を告げた象徴的な事例として小山田圭吾炎上事件を取り上げている。個人的には、過去のインタビュー記事が掘り返されて全国規模(もしかしたら全世界規模の)のオオゴトになったことは気の毒に思うところもあるが、じゃあどうすれば良かったのかという橘氏の見解が身も蓋もない。「キャンセルの対象になるような公的な仕事を受けてはいけなかった」のだ。小山田氏は自分自身の過去に傷があることを知っていたのだから。どう転んでも炎上は不可避だった。

 

PART2ではポリコレと言葉づかいを取り上げている。

ポリコレとは、人種や民族、宗教、国籍、性的指向などが異なるものがたまたまひとつの場所に集まるグローバル空間での「適切な振る舞い方」のこと

で、

私人間の暴力や国家による差別などわかりやすい問題が解決されていけば、必然的に、残るのは容易に解決できないやっかいな問題だけだ。

やっかいな問題に対するひとつの奇妙な進化として、敬語のインフレ現象が指摘されていて面白い。「させていただく」の誤用は指摘するのも野暮だが滑稽さがある。橘氏は、日本語には強い「敬意逓減の法則」が働くことを指摘し、敬語を多用することで敬意がすり減っていき、「よろしかったでしょうか」などと過去形にすることでさらに相手との距離をとるという進化を遂げたという考察にはため息が漏れた。ふとジンバブエドルのことを思い出して懐かしんだりした。

 

PART2ではポリコレが言葉づかいに現れる領域が渉猟され、PART3ではポリコレが「表現の自由」と衝突した現象ー会田誠キャンセル騒動ーについて考察されている。

会田誠の個展へのキャンセル運動で抗議対象は美術館であった。これは作家を抗議の対象とすると抗議者は表現の自由を抑圧する側になってしまうためで、プラットフォームへの抗議は戦略的なものなのだ。誰も傷つけない表現などというものはない。「表現の自由」と「キャンセルする権利」は裏表に存在し、どちらか一方だけを制限することはできない。なんらかの良識による合意が必要なのだが、どこまで行ってもそれぞれの正義が主張されることになり、このようにして終わりのない罵詈雑言の応酬が始まる。

 

PART4 評判格差社会のステイタスゲームでは、ステイタスが低いと不健康になって、本当に死にやすくなることを示唆するいくつかの研究を取り上げている。成功ゲームや支配ゲームでは金持ってる証拠や経歴・肩書などの実体的なエビデンスが要求されるのに対して、「美徳ゲーム」は不道徳者を探し出して「正義」を振りかざして叩くことで自分の道徳的地位を相対的に引き上げることができるお得なゲームだ。成功ゲームや支配ゲームを上手にプレイできない者たちが大挙して美徳ゲームになだれ込み、「正義というエンタテイメント」を楽しんでいる。橘節炸裂。

 

PART5では社会正義の奇妙な論理を取り上げているがここでは省略。

PART6はこの狂気をいかに生き延びるかという一番だいじな部分。私たちは一体どうすればいいのか。要約すると、地雷原に近づかず、「極端な人」に絡まれないように「個人を批判しない」こと。不愉快なコメントは無視するかブロックする。SNSでは専門分野以外はネコの写真でもポストしておくこと。

 

天国はすでにここにあるけど、地雷も埋まっているから、上手に歩いて平穏な人生を送ってね、とのあとがき。