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世界はなぜ地獄になるのか(読書記録)


橘玲の「世界はなぜ地獄になるのか」を読んだ(4月3日読了)。

 

序文で著者は“リベラル”を「自分らしく生きたい」という価値観と定義している。近代以降、人類史上とてつもなくゆたかで平和な時代が到来し、「自分らしさ」を追求できるようになった。反面、あからさまな不公正や差別を取り去った後に残された限りなく微妙な領域の中でなんとか上手くやっていかなくてはならいという難題が突きつけられている。

リベラル化の潮流は必然で止めることはできないが、リベラル化によって格差が拡大し、社会が複雑化して生きづらくなっていることを著者は指摘する。そして本書では、「誰もが自分らしく生きられる社会」を目指す社会正義の運動が、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していく現象が考察されている。

PART1では日本にキャンセルカルチャーの到来を告げた象徴的な事例として小山田圭吾炎上事件を取り上げている。個人的には、過去のインタビュー記事が掘り返されて全国規模(もしかしたら全世界規模の)のオオゴトになったことは気の毒に思うところもあるが、じゃあどうすれば良かったのかという橘氏の見解が身も蓋もない。「キャンセルの対象になるような公的な仕事を受けてはいけなかった」のだ。小山田氏は自分自身の過去に傷があることを知っていたのだから。どう転んでも炎上は不可避だった。

 

PART2ではポリコレと言葉づかいを取り上げている。

ポリコレとは、人種や民族、宗教、国籍、性的指向などが異なるものがたまたまひとつの場所に集まるグローバル空間での「適切な振る舞い方」のこと

で、

私人間の暴力や国家による差別などわかりやすい問題が解決されていけば、必然的に、残るのは容易に解決できないやっかいな問題だけだ。

やっかいな問題に対するひとつの奇妙な進化として、敬語のインフレ現象が指摘されていて面白い。「させていただく」の誤用は指摘するのも野暮だが滑稽さがある。橘氏は、日本語には強い「敬意逓減の法則」が働くことを指摘し、敬語を多用することで敬意がすり減っていき、「よろしかったでしょうか」などと過去形にすることでさらに相手との距離をとるという進化を遂げたという考察にはため息が漏れた。ふとジンバブエドルのことを思い出して懐かしんだりした。

 

PART2ではポリコレが言葉づかいに現れる領域が渉猟され、PART3ではポリコレが「表現の自由」と衝突した現象ー会田誠キャンセル騒動ーについて考察されている。

会田誠の個展へのキャンセル運動で抗議対象は美術館であった。これは作家を抗議の対象とすると抗議者は表現の自由を抑圧する側になってしまうためで、プラットフォームへの抗議は戦略的なものなのだ。誰も傷つけない表現などというものはない。「表現の自由」と「キャンセルする権利」は裏表に存在し、どちらか一方だけを制限することはできない。なんらかの良識による合意が必要なのだが、どこまで行ってもそれぞれの正義が主張されることになり、このようにして終わりのない罵詈雑言の応酬が始まる。

 

PART4 評判格差社会のステイタスゲームでは、ステイタスが低いと不健康になって、本当に死にやすくなることを示唆するいくつかの研究を取り上げている。成功ゲームや支配ゲームでは金持ってる証拠や経歴・肩書などの実体的なエビデンスが要求されるのに対して、「美徳ゲーム」は不道徳者を探し出して「正義」を振りかざして叩くことで自分の道徳的地位を相対的に引き上げることができるお得なゲームだ。成功ゲームや支配ゲームを上手にプレイできない者たちが大挙して美徳ゲームになだれ込み、「正義というエンタテイメント」を楽しんでいる。橘節炸裂。

 

PART5では社会正義の奇妙な論理を取り上げているがここでは省略。

PART6はこの狂気をいかに生き延びるかという一番だいじな部分。私たちは一体どうすればいいのか。要約すると、地雷原に近づかず、「極端な人」に絡まれないように「個人を批判しない」こと。不愉快なコメントは無視するかブロックする。SNSでは専門分野以外はネコの写真でもポストしておくこと。

 

天国はすでにここにあるけど、地雷も埋まっているから、上手に歩いて平穏な人生を送ってね、とのあとがき。