読書とカフェの日々

読書感想文と日記

6月12日と13日

昨日も帰宅してすぐさま眠くなってしまい晩ごはんを食べた後はもう何もせずに早めに寝た。やたらぐっすり寝て目が覚めたら顔がスッキリお肌がつるりんとしていたので、どうせ暑いしノーファンデにしてみた(下地とコンシーラーと粉はふんだんに使用した)。夏場はむしろこれでいいかも。

それで、昨日の読書ですが。東畑開人の『野の医者は笑う』を読了した。

楽しい読書だった。野の医者とはざっくり言えば科学的根拠のあやしい民間療法やスピリチュアルや占いなどの手法で癒しを行う人たちのことである。田舎で医療を行っている医師法に規定された医師免許を持ったお医者さんという意味ではない(読むまで田舎の医者の話かと思っていた。何人か免状持ちもいたが)。野の医者とはあやしい野良のヒーラーなのだ。本書は京大卒の臨床心理士の東畑さんが沖縄で野の医者たちと出会いまくり、治療を受けまくり、インタビューをしまくり、心の治療とは何か、臨床心理学ってなんなのかを問う、そんな稀有な趣旨と内容の笑える学術系エッセイなのである。やってることは悪ふざけのようだけど、野望はでっかいのだ。

東畑さんは野の医者に出会おうとしてまず妻に紹介を頼んでいるのが面白い。
「ゐなぐぬ みっちゃいするりば ユタぐとぅ いゅん」なのだ。ウチナーグチ(沖縄方言)難しすぎ。これは日本語にすると、「女が三人揃えばユタを買う話をする」という意味らしい。紹介されたのはユタではなかったが、サロンにはさまざまな怪しげな治療法の資格証書が飾られており、パワーストーンのアクセサリーやアロマオイルを売っていたりする。

一般に野の医者は石やアロマボトルのことをなぜか「この子」と言う。

笑う。美容系の人も化粧品を「この子が優秀」とかよく言うよね。ちょっとバカにしたような茶々が頻繁に入るが、本音がライトで基本的な眼差しはニュートラルだから読み慣れていくと嫌味とか悪意はそこまで感じない。何にでも悪ノリしてすぐにはしゃぎだすような軽薄さを自分でも楽しんでいる感じ。適当なのだ。適当さの中にも、正しいとか間違いとかを特定の価値観の中に押し込めないような抑制がある。医療人類学の考え方が通底しているのだ。

治療は文化によって変わってくる。何が病気とされ、何が治癒とされ、誰が治療者で、誰が病者なのか、そういうことが文化によってまったく違う。

見立てとか診断についての考察も興味深かった。

つまり、治療者は診断を告げることで、なぜ病になったのかのメカニズムを説明し、そして治癒の形を呈示し、そのためにどうすればいいのかを説得するのだ。(略)
だとすると、見立てとか診断とは、ひとつの物語を呈示することに他ならない。

臨床心理学の中にも、診断と治療は物語だと公然と言い切る療法や立場も結構たくさんあるのだ。過去にどんな意味づけをするのか、自分をどのように理解するのか、自分が信じられる物語があることで未来や変化が思い描ける。だからこそケースの概念化(フォーミュレーションという)という名のプレゼン力が治療へのコミットを左右する。臨床心理学も野の医者と同じメカニズムを使って治療という営みに参画しているのだ。その物語に良し悪しや優劣はつけられない。私が何で癒されるのか、どの物語を選びたいのか、それを誰も否定することはできないのだ。また、そうであるからこそ、野の医者を巡る旅の終わりに「私にとって臨床心理士の治療が良いものだった」と言われたときに東畑さんは肯定されたと感じたんだろう。

野の医者と臨床心理学の違い臨床心理学が学問であることだと著者は考察している。学問であるということは、心の治療とは何か、混沌とした現代の中で絶えず揺さぶられながら、粘り強く考え抜くことができるということだ。そして揺れる地面の上で必要なことは、実は笑いなのかもしれない。笑いとは苦しい場所から一瞬視点を自分から離脱させて、その場に留まり続けるためにあるのだ。野の医者は笑う。臨床心理士も、笑わなければ。

そして、明日のためにもう寝なければ。